興全寺。高座郡寒川町にある曹洞宗寺院

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龍寶山興全寺。旧大観寺跡地、宝篋印塔二基

興全寺の概要

曹洞宗寺院の興全寺は、龍寶山と号します。興全寺は、天正年間(1573-1592)に創建、三田清源院第五世英顔麟哲(慶長2年1597年寂)が開山したといいます。当地には、かつて大観寺と称する寺院があったと伝えられ、境内には貞治六・七年(1367・1368)銘の宝篋印塔二基が残され、寒川町内最古の石造物です。

興全寺
興全寺の概要
山号 龍寶山
院号 -
寺号 興全寺
住所 高座郡寒川町宮山1785
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



興全寺の縁起

興全寺は、天正年間(1573-1592)に創建、三田清源院第五世英顔麟哲(慶長2年1597年寂)が開山したといいます。当地には、かつて大観寺と称する寺院があったと伝えられ、境内には貞治六・七年(1367・1368)銘の宝篋印塔二基が残され、寒川町内最古の石造物です。また、開山の英顔麟哲は、当寺のほか小谷福泉寺・東富岡龍珊寺、長津田大林寺大曾根大乗寺小山保寿院を開山しています。

新編相模国風土記稿による興全寺の縁起

(宮山村)
興全寺
龍寶山と號す、曹洞宗愛甲郡三田村清源院末、本尊釋迦を安ず、開山を英顏麟哲と云ふ慶長二年七月廿二日寂す。(新編相模国風土記稿より)

「寒川町史10別編寺院」による興全寺の縁起

興全寺
曹洞宗。山号は龍宝山。愛甲郡三田村(厚木市)清源院の末寺である。また当寺末としては一之宮村西光寺(現廃寺)があった。
開創年代は天正年間(一五七三~九二)と伝えられるが、正確な年次はわかっていない。開山は英顔麟哲。麟哲は当寺以外にも相模国では小谷村福泉寺・東富岡村(伊勢原市)龍散寺の二か寺も開いている。本尊は釈迦如来坐像であるが、現在の本尊は、二二世住職坂詰孝童の代に、本寺清源院より移したものである。
寛永十年(一六三三)の「曹洞宗通幻派本末記」の記述には、「山屋敷計、相州東郡一宮村高全寺」とある。また延享四年(一七四七)の「総寧寺配下本末帳」には、天巽派として「一除地相模国高座郡宮山村興全寺」と記されており、享保五年(一七二〇)の宮山村明細帳によればこの除地高は七石であった。宮山村内字根岸には当寺支配の社木が九畝ほどあった。「社寺明細帳」によれば、堂宇の間口九間半・奥行六間半、境内坪数四九九坪、境外所有地として耕地三町二反一畝一五歩・山林二反四畝五歩・芝地一反七畝一〇歩があった。また地租改正時には、当寺の寺地として一反六畝一九歩の土地が記載されている(「旧寒川村宮山絵図」 福岡将行氏蔵)。
(中略)
当寺の由緒については、時期ははっきりしないが、現在の寺域周辺には往古より大観寺と称する寺院があり、その跡地に当寺が建てられたという伝承がある(『さむ川その昔を語る』第四集)。境内にある宝篋印塔二基はそれぞれ貞治六、七年(一三六七、一三六八)の銘があり「逆修」(生前供養)の文字が刻まれている。ともに南北朝時代の造立であり、当寺開山以前の寺院の存在を示唆している。いずれにせよ、現存する宝篋印塔としては、町内最古の石造物である。また元文四年(一七三九)五月の日付がある棟木(興全寺蔵)は、当住安山寅長叟が山門を造立した際に奉納したもので、銘文には「昔時日光東照大権現宮当山へ御入りの事、前々申し伝ふ也、年代を経て破壊に及ぶゆへ造立す、それに就き古来の冠木祈祷のため新門の中通に短桂これを用ふる者也」と記されている。(「寒川町史10別編寺院」より)


興全寺の周辺図