福厳寺。小田原市中町にある曹洞宗寺院

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圓通山福厳寺。小田原市中町にある曹洞宗寺院

福厳寺の概要

曹洞宗寺院の福厳寺は、圓通山と号します。福厳寺は、大用晨甫(大永2年1522年寂)が永正元年(1504)に福門寺と号して創建、皆川市正通嚴(福嚴寺殿)を開基として寺名を福厳寺と改めたといいます。天正18年(1590)の徳川家康関東入国の際、松平玄蕃頭家清の内室で徳川家康の妹高瀬君(天桂院殿月窻貞心大禅定尼)が当地近くの陣場蹟で逝去されたことから、当地で葬られ、松平家から佛供料を、小田原城主より代拝されていたといいます。

福厳寺
福厳寺の概要
山号 圓通山
院号 -
寺号 福厳寺
本尊 釈迦如来像
住所 小田原市中町2-13-48
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



福厳寺の縁起

福厳寺は、大用晨甫(大永2年1522年寂)が永正元年(1504)に福門寺と号して創建、皆川市正通嚴(福嚴寺殿)を開基として寺名を福厳寺と改めたといいます。天正18年(1590)の徳川家康関東入国の際、松平玄蕃頭家清の内室で徳川家康の妹高瀬君(天桂院殿月窻貞心大禅定尼)が当地近くの陣場蹟で逝去されたことから、当地で葬られ、松平家から佛供料を、小田原城主より代拝されていたといいます。

新編相模国風土記稿による福厳寺の縁起

(中島村)
福嚴寺
圓通山と號す、曹洞宗、(駿州阿部郡敷地村徳願寺末、)永正元年僧大用晨甫起立、(本山世代、大永二年五月廿一日卒、)其頃は福門寺と號す、 (注釈を読む)
三世徹巌の時、皆川市正通嚴、中興開基せしかば、大永二年今の寺號に改めしと、寺記に見ゆ、 (注釈を読む)
本尊拾千面觀音、天正十八年十月、六世安州闔宅、台命を受、天桂院殿の御導師を勤め、則境内に葬し奉る、客殿に御位牌を安置す、
【什寶】
△鞍二口(前輪のみあり、黒塗にて梅花唐草の蒔繪ありしと見ゆれど剥落せり、)
△鐙一掛(黒塗にて五六の鎧なり)
△挟箱一合(春慶塗にて黒塗の面取なり、銅物所々缼損、)以上天桂院殿の御遺物と云、
△卓圍四張(二張は地茶色にて、葵御紋・菊・桐・紅葉・桔梗・銀杏等の縫あり、二張は目結の模様あり、慶長十一年寛永三年の兩度に、天桂院殿の息女、淺野采女正長重内室、寄納する所なり、)
△白山社
△天桂院殿御寶塔一基。本堂の背にあり、五輪塔なり、(高一尺五寸許、)天桂院殿は、東照宮の御妹にて高瀬君と稱し、松平玄播頭家清か室とならせらる、(【寛永譜】曰、松平與次郎家清、後に玄播頭と稱す、天正九年、大權現御妹を娶せ、御諱の字を賜る、)寺傳に天正十八年十月十七日、今井の御陣屋(郡内今井村に御舊蹟あり、)にて逝去し給ふ、(按ずるに、天桂院殿此御陣所にて逝せられし事疑ふべし、蓋御國替の折なれば、御旅中御不例に因て、御陣所の未だ毀たれざりしを以て、幸に爰に入奉り、御養生などありしにや、)時に曹洞宗寺院に葬るべきの御遺言に任せ、當寺に御葬埋ありしと云、御法名天桂院殿月窻貞心大禅定尼と稱し奉る、是より年毎に、佛供料を其家より(今子孫旗下の士、松平主水清良なり、)贈り且海道通行の序には自拝あり、又毎年の忌日に小田原城主より代拝の儀あり、 (注釈を読む)
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東壁院
龍珠山と號す、(同末:福嚴寺末)當寺も仙岩守鶴永禄五年起立す、本尊正觀音、
△稲荷社 (新編相模国風土記稿より)


福厳寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿