文三堂|小田原市の名所旧跡

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文三堂|佐奈田与一義忠の従者だった文三家康を祀る堂

文三堂の概要

文三堂は、小田原市にある名所旧跡です。文三堂は、源頼朝が治承4年(1180)に挙兵、米神山の合戦により戦死した佐奈田与一義忠の従者だった文三家康(豊三家安)を祀る堂です。文三家康は、57歳と高齢、主君佐奈田与一義忠が討ち取られたと知らされ、離脱するように勧められたにも関わらず、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って戦死したと伝えられます。

文三堂
文三堂の概要
名称 文三堂
区分 県指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 小田原市米神137
備考 -



文三堂の由緒

文三堂は、源頼朝が治承4年(1180)に挙兵、米神山の合戦により戦死した佐奈田与一義忠の従者だった文三家康(豊三家安)を祀る堂です。文三家康は、57歳と高齢、主君佐奈田与一義忠が討ち取られたと知らされ、離脱するように勧められたにも関わらず、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って戦死したと伝えられます。

佐奈田霊社掲示による文三堂について

米神山古戦場のうち与一塚及び文三堂
米神山古戦場は、治承四年(一一八〇)八月二十三日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。
ここで、頼朝の軍は平家方の大場景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、落ちのびました。その後勢力を盛り返し、平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。
与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠その家臣文三(豊三)家康(安)を祀ってあるところです。
佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎打ちになり、景久を組み伏せましたが、刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際、刀を拭わずに鞘に差したため)、敵方の加勢により討ち取られてしまいました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って壮烈な戦死を遂げました。
「吾妻鏡」には、米神山合戦後の建久元年(一一九〇)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。その後、佐奈田与一は神霊として佐那田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。(小田原市教育委員会掲示より)


新編相模国風土記稿による文三堂について

(米神村)
豊三家安墳
米神村の堺に在、熱海道側より石階を登ること三十級、上に松樹あり、(圍八尺、)是を文三塚と呼り側に牌を立、(高六尺、)佐奈田與一郎等文三墓、治承四年庚子年八月廿三日夜と題す、田邊權太夫信吉(古領主稲葉美濃守正則の老臣)の建る所なり、(碑上覆屋あり、)忌日には参詣の輩多し、家安【東鑑】には家康に作り、【盛衰記】には豊三を文三に作る、米神山の役に義忠と共に討死す、時に年五十七、(注釈を読む)
文治六年正月、賴朝此墳を一覧あり、哀傷を催さる、(同上)又義堂の詩にも、余一豊三墓木荒と題せり、(同上)(新編相模国風土記稿より)

文三堂の周辺図