大稲荷神社。小田原市城山の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

大稲荷神社。旧田中稲荷、谷津村・竹の花町・須藤町・大工町の鎮守

大稲荷神社の概要

大稲荷神社は、小田原市城山にある神社です。大稲荷神社は、当地近隣に祀られていた田中稲荷を、宝永3年(1706)大久保加賀守忠増の命により当地へ遷座、谷津村、竹の花町、須藤町、大工町の鎮守として大稲荷神社と称したといいます。田中稲荷は、徳川家康に仕え、足柄上郡雑色を領有した武田氏の旧臣曲淵庄左衛門吉景が自身の屋敷神を谷津に勧請、また大久保氏の祖宇津左衛門五郎忠成が祀っていた屋敷神を、大久保忠世が小田原城主となった時、田中稲荷に勧請したといいます。宝永2年(1705)に大久保家家臣の妹に神がかりして、吉事の託宣があり、大久保忠増が若年寄から老中に昇進したことから、この田中稲荷が小田原城の鬼門除稲荷として遷され、大稲荷と改号したと伝えています。

大稲荷神社
大稲荷神社の概要
社号 大稲荷神社
祭神 田中大神、宇迦之御魂神
相殿 -
境内社 愛宕神社、錦織神社、田中元宮、山神社、官位稲荷
祭日 5月4・5日
住所 小田原市城山1-22-1
備考 -



大稲荷神社の由緒

大稲荷神社は、当地近隣に祀られていた田中稲荷を、宝永3年(1706)大久保加賀守忠増の命により当地へ遷座、谷津村、竹の花町、須藤町、大工町の鎮守として大稲荷神社と称したといいます。田中稲荷は、徳川家康に仕え、足柄上郡雑色を領有した武田氏の旧臣曲淵庄左衛門吉景が自身の屋敷神を谷津に勧請、また大久保氏の祖宇津左衛門五郎忠成が祀っていた屋敷神を、大久保忠世が小田原城主となった時、田中稲荷に勧請したといいます。宝永2年(1705)に大久保家家臣の妹に神がかりして、吉事の託宣があり、大久保忠増が若年寄から老中に昇進したことから、この田中稲荷が小田原城の鬼門除稲荷として遷され、大稲荷と改号したと伝えています。

境内掲示による大稲荷神社の由緒

大稲荷神社
当社は往古は田中稲荷と称していたが、宝永3年(1706)5月、小田原城主大久保加賀守忠増によって現在地に勧請され、谷津村、竹の花町、須藤町、大工町の鎮守として大稲荷神社と称した。田中稲荷の起源について、大久保家記別集並びに旧田中稲荷祠の紋章が佛教修験者の紋章であるところから北條氏時代に修験者に依って建立せられた佛堂によれば、武田氏の臣曲淵庄左衛門吉景の屋敷神であったものを、武田家滅亡後に土着してここに合祀しその後、大久保氏の祖宇津左衛門五郎忠茂が信崇していた社を、大久保七郎右衛門忠世が小田原城主となった時、この地に勧請したといわれる。その後、加賀守忠増が城主の宝永2年(1705)2月、忠増の家臣清水左衛門の妹に田中稲荷が神がかりして「今年の内に城主に吉事があり」と託宣があった。
果してその年の12月、忠増は若年寄から老中に任ぜられた。そこで忠増は、谷津の田中稲荷をこの地に勧請して大の字を冠し、大稲荷神社と称したと言う。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による大稲荷神社の由緒

(谷津村)
大稲荷社
古は村東田間にあり、田中稲荷と唱へしを、寶永三年五月、今の社地福泉寺後の山上に轉じ、この社號に改めしと傳ふ、 (注釈を読む)
當村及城下町の内竹花・須藤・大工三町の鎮守なり、神體及本地佛馬頭觀音を安置す、祭禮六月十五日、隔年に神輿巡行の儀あり、これ寶永六年より始りしと云り、(家記別集に、忠增信祟の餘領内にも稀なる神事祭禮を執行ありしと見ゆ、)又初午及び六月十六日の二度に、湯立の式あり、社内に稲荷十五座、(板札にて、木本・兵虎・山本・熊谷・官位・烏森・丸女・杉木・五祖子・白山・寶珠・姫宮・若姫・山中・三社等の神號を記す、)及第六天(是も板札に神號を記せり、)を勸請す、幣殿・拝殿あり、別當は福泉寺今も兼帶せり、
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田中稲荷社
田間にあり、大稲荷の元宮なり、同寺持、
帶せり、
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山神社
山神臺にあり、妙光院持、(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による大稲荷神社の由緒

神社所蔵の由来伝記、大久保家記別集並に曲渕家譜及び相模風土記によれば、小田原城主大久保公の祖が参州和田妙国寺門前に居を構えて居た当時からお祀りして居た稲荷を、天正十八年(一五九一)小田原城主となるや小田原城下に遷宮した。小田原には以前北条時代から仏教と同時に稲荷信仰が伝わり、稲荷の祠があった。偶々天正年間甲州武田家の一族の将曲淵庄左エ門吉景が東照宮に奉仕し、相州西部に采地を賜わり、武田家の守護神たる稲荷を此の地に遷宮し、以前から在った祠に合併した。其の後城主大久保忠隣公は元和元年武州騎西に移されそれ以来荒廃するに任せた。貞享三年正月大久保忠朝公小田原城主となり、宝永二年(一七〇三)初夏の或る日家士清水池石エ門の女の御神託によって祈願所とし、又小田原城の鬼門除稲荷として城下升の花に再興し、大稲荷大明神と称えた。時は宝永二年五月十一日であった。重ねて九月二十一日城主大久保忠増公は大老中執政職となったので稲荷大明神の御神徳の崇高あらたかなるに驚き現在の谷津山に御社殿を造営し、宝永三年五月完成遷座せられた。宝永八年四月二十一日神道祇管領吉田ト部朝臣兼敬より正一位の神位宣命があった。同じく五月二十六日藩主より社領七〇石御寄進せられた。(「神奈川県神社誌」より)


大稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿