浜町山王神社。小田原市浜町の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

浜町山王神社。山王篠曲輪で祀られていた社、星月夜の社

浜町山王神社の概要

浜町山王神社は、小田原市浜町にある神社です。浜町山王神社の創建年代等は不詳ながら、小田原北條氏の頃は山王篠曲輪・篠曲輪・出曲輪などと称された地に鎮座、豊臣秀吉の小田原城攻めに際しては、徳川家康が当地に陣を敷き、当社に参詣したと伝えられます。当地より海辺にあったことから海浪に罹災したことから、慶長18年(1613)当地へ遷座、寛永元年(1624)には朱子学者として著名な林羅山が当社で星月夜の詩を詠んだことから星月夜の社と称されたといいます。江戸期には当地山王原村の鎮守として祀られ、明治維新後の神仏分離令により日枝神社と改称、明治6年地内白山神社を合祀し村社に列格しています。

浜町山王神社
浜町山王神社の概要
社号 山王神社
祭神 大山祇命、少名彦名命、大山咋命
相殿 -
境内社 -
祭日 5月5日・神輿渡御
住所 小田原市浜町4-30-15
備考 旧村社



浜町山王神社の由緒

浜町山王神社の創建年代等は不詳ながら、小田原北條氏の頃は山王篠曲輪・篠曲輪・出曲輪などと称された地に鎮座、豊臣秀吉の小田原城攻めに際しては、徳川家康が当地に陣を敷き、当社に参詣したと伝えられます。当地より海辺にあったことから海浪に罹災したことから、慶長18年(1613)当地へ遷座、寛永元年(1624)には朱子学者として著名な林羅山が当社で星月夜の詩を詠んだことから星月夜の社と称されたといいます。江戸期には当地山王原村の鎮守として祀られ、明治維新後の神仏分離令により日枝神社と改称、明治6年地内白山神社を合祀し村社に列格しています。

境内掲示による浜町山王神社の由緒

星月夜の社山王神社
明応四年(一四九五)二月北條早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。
その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称え、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが暴浪のため、その地崩潰せしかば、慶長十八年(一六一三)九月十八日現地に移せりと。
旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。其の井戸も移して現地にあり。天正十八年小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所にして元禄中再建の用材は領主永世寄進の証状ありしと。
寛永元年(一六二四)江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内にて星月夜の詩を詠む。その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮ぶ大空の星影映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社と共に、星月夜ノ井戸を史跡として長く後世に伝えん。
一、明治六年七月三十日 旧足柄県に於て村社に定められる。
一、大正四年十一月一二日 神饌幣帛料供進神社に指定される。
一、五月五日 例祭(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による浜町山王神社の由緒

(山王原村)
山王社
村の鎮守なり、小田原陣の時、東照宮日々當社へ御参詣ありし由、縁起に見ゆ、其頃は今の社地より、南の方松林中に在しが、其地巨波の爲に崩潰せしかば、慶長十八年、此地に遷せしと云、庚申及阿彌陀釋迦薬師の三軀を本社(方九尺)に安ず、幣殿・拝殿あり(各三間半に二間半)、例祭六月十五日、三年に一度神輿を出して、村内を巡行す、宗福寺持、
△末社。太神宮龍神稲荷合社、疱瘡神、辨天、秋葉
△鐘樓。寛永十二年の鐘を掛く、(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による浜町山王神社の由緒

縁由及創立年月等旧記焼失して確証なし。古老の口碑に、往昔北条氏の邸内に勧請せる山王権現にして元社地は東海道の南方山王曲輪と称えし海辺袖ノ池の南袖ケ薮にありしを、数度激浪の厄に遭いしを以て慶長十八年(一六一三)九月十八日現社地に遷すという。明治四年日枝神社と改称、更に明治六年七月十三日白山権現と合併して現社号に改む。明治六年七月三十日旧足柄県に診て村社に定められ大正四年十一月十二日神鋲幣吊供進神社に指定される。(神奈川県神社誌より)


浜町山王神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿