大友八幡神社。小田原市東大友の神社

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大友八幡神社。小田原市東大友の神社

大友八幡神社の概要

大友八幡神社は、小田原市東大友にある神社です。大友八幡神社の創建年代等は不詳ながら、堀越御所左門督足利政知が寛正3年(1462)東大友の地を鶴岡八幡宮に寄進していることから、鶴岡八幡宮の社領となった際に足利政知が勧請したと伝えられます。江戸期には東大友の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治42年東大友地内の諸社、西大友八幡神社及び西大友の諸社、延清浅間神社を合祀しています。

大友八幡神社
大友八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 品田別命、木花佐久屋姫命
相殿 -
境内社 -
祭日 10月10日
住所 小田原市東大友214
備考 -



大友八幡神社の由緒

大友八幡神社の創建年代等は不詳ながら、堀越御所左門督足利政知が寛正3年(1462)東大友の地を鶴岡八幡宮に寄進していることから、鶴岡八幡宮の社領となった際に足利政知が勧請したと伝えられます。江戸期には東大友の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治42年東大友地内の諸社、西大友八幡神社及び西大友の諸社、延清浅間神社を合祀しています。

境内掲示による大友八幡神社の由緒

大友八幡神社
この神社は明治四十二年十一月三十日、大友八幡神社の敷地に、東大友の神社及び西大友及び延清の神社を合祀したものであり、祭神は品陀別二柱と此花咲耶姫一柱である。
品陀別命は一柱は東大友村社八幡神社、他の一柱は西大友八幡神社のもの、此花咲耶姫は延清浅間神社でこの三神を其時合祀したものである。
品陀別命は応神天皇である。此花咲耶姫は祇神の子で天照大神の姪に当たる神である。
神社合祀の時には、東大友のこの敷地に、西大友の本殿及び拝殿を解体し、そのまま再築したものである。
神楽殿は延清の社殿を解体して、造ったものである。
古宮萬寿夫氏著 東・西大友・延清郷土史(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による大友八幡神社の由緒

(東大友村)
〇八幡社
村の鎮守なり、神體石像、祭祀八月十五日牛頭天王を相殿に祀る、村持、下同、
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稲荷社二
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嚴島辨天社
大友左近将監能直建立すと傳ふ、長善寺持、
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(西大友村)
〇熊野八幡合社
村の鎮守、例祭九月十六日、
△末社。淡島、地神
△別當大樂院。當山修驗、(醍醐三寶院末、)鳩峯山と號す、本尊不動、
△稲荷社
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(延清村)
淺間社
村の鎮守なり、祭禮六月一日、村持、
△末社。山王 天王(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による大友八幡神社の由緒

創立年月日は不詳であるが、相模風土記に喰れば、寛正三年(一七九二※1462の誤り)十二月松田左ヱ門尉の所領の闕地を裂いて、堀越御所左門督政知が鶴岡八幡宮の社領に寄附したことは、同十二月二十一日付鶴岡文書に左馬頭源朝臣の華押があるので明らかである。又古老の伝説にも年月日は不詳であるが、当地の政知が鶴岡の社領に献じて同宮を勧請したものと今尚口碑に伝えている。当社は明治六年七月三十日旧足柄県で村社と定められ、品陀別命一柱は西大友村社八幡神社を、木花咲耶姫命は延清の村社を明治四十二年十一月三十日官命に依って当神社に合祀した。
(「神奈川県神社誌」より)


大友八幡神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿