中丸子神明大神。川崎市中原区中丸子の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

中丸子神明大神。地頭本郷勝右ヱ門源重泰、本郷勝三郎源長泰が明暦2年創建

中丸子神明大神の概要

中丸子神明大神は、川崎市中原区中丸子にある神社です。中丸子神明大神は、地頭本郷勝右ヱ門源重泰、本郷勝三郎源長泰が明暦2年(1656)創建したといいます。

中丸子神明大神
中丸子神明大神の概要
社号 神明大神
祭神 天照皇大神、稲田姫命
相殿 -
境内社 稲荷社、天満宮、辨財天
祭日 おびしゃ祭1月7日、秋季例大祭10月8日直近の日曜日
住所 川崎市中原区中丸子492
備考 旧村社



中丸子神明大神の由緒

中丸子神明大神は、地頭本郷勝右ヱ門源重泰、本郷勝三郎源長泰が明暦2年(1656)創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による中丸子神明大神の由緒

(中丸子村)羽黒社
多摩川の方へよりてあり。本社3間に2間拝殿6間に2間半、東に向、本地佛弥陀薬師観音は行基の作なり。社地のさま雑木茂ていとふりたり。当社勧請の始を尋るに明暦3年の縁起あり。こは時の社僧天順と云へるが記せしものにて、当社神力の尊のみをのせしなれば、もとより事実のとるべきことなし。ただそれが中に天正年出羽国よりうつして勧請せりと云ことを載たり。さあればこの頃よりの勧請ならんか。例祭正月8日6月10日9月8日の三日をもて行へり。村内無量寺の持
末社
弁天社、本社の傍にあり。
神明天神稲荷合社、本社の北にあり。神明及び天神はもと多摩川向ひ飛地の内にありしにいつの頃かここにひきうつして合殿となせり。
蔵王社、本社に向て右にあり。この傍に社守の家あり。2間に9尺。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による中丸子神明大神の由緒

明暦二年(一六五六)三月地頭本郷勝右ヱ門源重泰、本郷勝三郎源長泰の建立で、毎年九月八日地頭自ら祭祀を奉行した。この地は本郷重泰の領地で、明治維新に至る迄代々同家の所領であったから領民の安寧幸福の祈願所として、社運隆昌を続けて来た。明治以後も、住民の信仰厚く大正十一年四月四日、神饌幣帛料供進神社に指定せられた。新神奈川県神社誌り)

境内掲示による中丸子神明大神の由緒

羽黒大権現縁記
拝謹出羽国天正年中に奉勧請、羽黒大権現と称し一字(ママ)のお宮あり、本地は弥陀、薬師、観音の御化身行基菩薩の御作なり、ここに生国は会津若松の者、名は小寄三蔵と申して道中の馬方仕つり、江戸に住んで年久しく、我中風の病をうけ半身叶はず歯も落ち、舌内もとならず様々養生致すといへども治せず、営みければ非人となり、此所彼所と乞喰し、川崎宿より此の村にたどりき、御宮を宿とし、所を廻り月日を送り三ヶ年余り御宮、居住仕り候事近辺に隠れなし然る処、かの非人行歩叶はねば一日二町三町ばかり程片手片足にて行き帰り仕り、その上髪髯は生え茂り身くさくして目もあてられぬていなりき、承応三年甲午六月中旬に何国ともなく山伏一人来り、彼の非人に申様、汝さように身けがわらしうして此の御宮の住居申になりがたし早く出家して名を弥海と改めよ、とて山伏はうせけり、それより法人弥海と呼びしなり、同年九月下旬より夜な夜な玉川より立燈上りき、人々不思議に思ふところに同じく霜月中旬より極月初めの頃まで夜の四ツ時分に、ここうに、かんおふかんおふと呼声聞えけり、これも、妙なる御告げと肝をけし不審に思ふところに同極月中旬より御宮なり動き不思議様々なりければ、いよいよ信心凝らし御宮を浄め祈念致すところに同極月下旬より大雪降り積り、路をとじ、人の通ひなき故、弥海所に出ざる間営みが末、病いや重なり、社二十日余り去らず、雪をかんで命を継ぐ苦労の余り請ひ願ふは神力にて我病治せずば命をとり給ふようと山中に深く行念したりき、承応四年乙未の正月十一日の夜半過ぎ寅の刻に有難くも羽黒大権現二十年ばかりの御僧と現じ弥海を呼び出し我はこれ此宮の権現なり汝一命を懸けて祈る間、薬を与へんと金色の御手のべ一粒の御薬口の内へ下し給へば叶はざるの手足、弁舌、自由になり、落ちたる歯も三十三枚生え出る、この歯水晶の如くにして一代さひず、然れども腰は立ぬや汝が祖父、馬の足を打折りし、あやまちにより、いざりになすと御神の勅ありその当り七、八町四方は、さながら日中の如くになり神は上らせ給ふ、弥海ここに、うつつともわきまえず御誼を拝し奉り、それより近所の古川へ行き氷を砕き水を浴び愈々御神前を拝み、夜明十二日の早朝には古き踏を、ひざにはき、乎にもはいて、四ツばいにはいずり廻る、処の人々に此の由を語れば彼の弥海より、あり様を見て信心行命して其後御湯茶を捧げ奉れとて江戸神明のねきみこ、を呼び湯祭を致しくれ種々の御託宣あらたなり、此の時氏子共、申様、たとへ前生の異業なりとも御神力の上はなし、御湯の余りを弥海に浴びせ、いざり腰をたてよと誓ひ、大藁一把御湯茶に入れ、彼の弥海に浴びせ、ひた打に打ちければ忽々にのび、かけ出で別当寺に行き、前後を忘れ二夜三日伏しけり。こののちは五体が元の身となり此の宮に香花を捧げ、その後は御宮仕ひ致しき、みよふの御蔭など出し申し候、因って明暦丁丙の正月まで貴賎群集して、はやらせ給ふ、江戸町在所に近国の来詣の人々様々の立願が叶ひ申候、仁と数多ありしこと江戸近辺にかくれなしと侍りけり、明暦元年乙未六月より御宮建立あり御本社とちふき、拝殿こけらぶき、色々の彫物仕り、極座いたしきなり、明暦二年酉申の二月八日に御遷宮あり其の日より御神木さいかちの木の上に白蛇あらはれ十七日遊びけり諸人拝み申事隠れなきなり、誠に古今の建立なればとて御宮の額を朝鮮人に書かせけり、未(まま)社は日光、月光、神明、いなり、座王、弁財天、御本地宮、御ゑい堂、之有候、然りといへども鳥居、玉垣、建立この頃時節悪しく成就不仕候に付此の縁記奉加帳の序に、しるし此節方々へ出し度ものや
瑠璃光山別当 無量寺
時明暦三丁丙年三月吉辰
社僧 天順記す(境内掲示より)


中丸子神明大神の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 神奈川県神社誌