安養院。鎌倉市大町にある浄土宗寺院

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祇園山安養院。坂東三十三ヶ所3番

安養院の概要

浄土宗寺院の安養院は、祇園山田代寺と号します。安養院は、北条政子が源頼朝の菩提を弔うため、僧願行を開山とし、祇園山長楽寺と号して嘉禄元年(1225)佐々目ヶ谷に建立、同年北条政子が逝去の際に僧願行が導師となり、法名安養院如實妙觀大禅尼から寺号を安養院と改めたといいます。その後(正慶2年1333年か?)兵火により罹災、善導寺のあった当地へ移転、延宝8年(1680)に火事により罹災、再建に際して田代観音堂を境内へ移したといいます。坂東三十三ヶ所3番、鎌倉三十三観音霊場第3番、鎌倉二十四地蔵尊霊場24番です。

安養院
安養院の概要
山号 祇園山
院号 安養院
寺号 田代寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 鎌倉市大町3-1-22
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



安養院の縁起

安養院は、北条政子が源頼朝の菩提を弔うため、僧願行を開山とし、祇園山長楽寺と号して嘉禄元年(1225)佐々目ヶ谷に建立、同年北条政子が逝去の際に僧願行が導師となり、法名安養院如實妙觀大禅尼から寺号を安養院と改めたといいます。その後(正慶2年1333年か?)兵火により罹災、善導寺のあった当地へ移転、延宝8年(1680)に火事により罹災、再建に際して田代観音堂を境内へ移したといいます。

鎌倉市掲示による安養院の縁起

尼将軍と称される北条政子が夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。
延宝八年(一六八〇)に全焼したため頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。(鎌倉市掲示より)

新編相模国風土記稿による安養院の縁起

(大町村)安養院
是も名越町にあり、古昔は笹目ヶ谷に在しとなり、祇園山長楽寺と號す、浄土宗(昔は無本寺にて、名越一派の本山なり、延寶四年六月、諸宗寺院本末御改より、京知恩院末に屬す、)當寺は嘉禄元年三月二位の禅尼故賴朝菩提の爲笹目ヶ谷邊(按ずるに、西方長谷村界笹目ヶ谷に長楽寺谷と云ふあり、是當寺の舊蹟なり)にて方八町の寺域を卜し、七堂伽藍を營み律寺を建立して僧願行を開山とし
(寺傳に、願行は京都東山長樂寺、隆寛律師の弟子にて建治二年八月廿八日、八十二歳にて寂すと云ふ、【高僧傳】曰、釋憲靜、字願行、受業和鏡、勵精律部云々、即以檀[貝へんに親]化寶王刹祇園山安養院云々、其年四月十七日遷化、世齢法臘未考之、敕謚宗燈律師、又【大山不動靈記】に願行永仁三年四月十七日示寂と載す、寺傳と年代月日異なれり)
永く菩提所と定め即今の山寺院號を銘すと云ふ、又茲年七月(寺傳十三日と傳ふるは訛なり、)二位禅尼逝去ありしかば願行導師となり、當寺に葬送し法名を安養院如實妙觀大禅尼と號すと云ふ、今【東鏡脱漏】を参考するに附會の説なるべし
(【脱漏】曰、嘉禄元年七月十一日丑刻、二位家薨御六十九、十二日寅刻、二位家御事有披露、戌刻於御堂御所地而、奉火葬云々、八月廿七日、今日二品御葬御佛事、竹御所御無沙汰也、導師辨僧正定豪云々、是に據れば願行導師と云ふは、訛なること論なし、葬地も恐らくは、勝長壽院なるべし、されど彼院蚤く廢院となれば、其詳なる事を知る由なし)
後兵火の爲に堂宇殘らず烏有となりしかば、當所善導寺蹟に移て堂宇を營み、兩寺を合して再建す
(【鎌倉志】に當寺初長谷の前、稲瀬川の邊に在しを、相模入道滅亡の後、此に移すと云傳ふ云々、是に據ば、正慶二年の兵火なるべし、又善導寺も其頃退轉せしなるべし、寺傳に、彼善導寺開山は、記主禅師の法嗣尊觀なり、某年名越一派を立爰に一宇を建立し、正和五年三月十四日、八十二歳にて寂すと云ふ、)
後年現住昌譽(願行より十五世と云ふ寂せし年代傳はらず、)が時律宗を改め、今の宗派となると云ふ、天文十六年北條氏直敷地を寄附す
(所蔵文書曰、敷地之事、壹貫六百文之分任永正十七庚辰歳落着之旨令寄附者也、仍如件、天文十六丁未十月十二日、安養院、虎朱印を押す、)
同廿に念棟別錢の免許あり、
(曰、棟別錢先年半分赦免、殘所三百五十九文、重而當年被免許候状如件、天文廿二癸丑十一月十五日、鎌倉安養院、虎朱印を押す、)
今寺領永壹貫六百文は天正十九年十一月御朱印を賜へり、延寶八年十月晦日の夜門外町家より失火して諸堂殘なく焼亡す、其頃比企谷の内田代に觀音堂あり、當院の末なりしを當時再建の時境内に移し、夫より三ヶ寺合成の梵宇と稱す、
△本堂。本尊彌陀(安阿彌作)を安ず、堂中賴朝又二位禅尼の牌、及び善導・圓光寺兩師並に願行(自作と云ふ、)の二像を置く、
△地蔵堂。本尊は石像(弘法作と云ふ)にて鎌倉二十四所の一なり、子安地蔵と云ふ、
△觀音堂。本尊千手觀音なり(立像長五尺四寸、惠心作、)坂東三十三所の札所第三番と云ふ、昔田代冠者信綱此像の肚中に守本尊三面の千手觀音の畫像(立像にて、長九寸許、天竺竜樹菩薩筆、)を籠め、更に比企谷田代の地に堂舎を造建して安置し、白花山普門寺と號せり、土俗は多く田代寺又田代堂など稱せり、後年本尊再興の時腹中の畫像損ぜん事を恐れ別に厨子に納て内殿に安ずと云ふ、延寶八年十月晦日の夜當寺焼亡の後此境内に移せしなり、前立に同像を置き、脇壇に阿彌陀の座像を置く(惠心作)是は二位禅尼の持念佛と云ふ、
△鎮守社。神明(春日作と云ふ)を安ず昔八幡太郎義家長谷村甘縄里に勸請せしを當寺彼村の舊地より當所に移れる時、境内の鎮守として此社を造營し此神體を甘縄より移して勸請すと云ふ、されど今猶彼村に神明宮ありて神體は義家の守護神と傳へ、殊に秘崇す彼村に云ふ所照し見るべし、
△鐘樓。元禄八年鑄造の鐘を懸く(新編相模国風土記稿より)


安養院の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿