五所稲荷神社。鎌倉市岩瀬の神社、旧村社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

五所稲荷神社。岩瀬与一太郎義正が建久年間に創建、旧村社

五所稲荷神社の概要

五所稲荷神社は、鎌倉市岩瀬にある稲荷神社です。五所稲荷神社は、建久年間(1190-1198)岩瀬与一太郎義正が、当地に居住した際に五穀豊穣と安寧を願って創建したといいます。保食・大己貴・大田・倉稲魂・大宮姫の五座を祀り五社明神とも称され、江戸期には岩瀬村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格していました。

五所稲荷神社
五所稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂神、保食神、大己貴神・太田神・大宮能売命
相殿 -
境内社 平島弁財天社
祭日 8月最終土日曜日
住所 鎌倉市岩瀬1399
備考 旧村社



五所稲荷神社の由緒

五所稲荷神社は、建久年間(1190-1198)岩瀬与一太郎義正が、当地に居住した際に五穀豊穣と安寧を願って創建したといいます。保食・大己貴・大田・倉稲魂・大宮姫の五座を祀り五社明神とも称され、江戸期には岩瀬村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格していました。

神奈川県神社誌による五所稲荷神社の由緒

杜伝によると建久年間(一一九〇~一一九八)岩瀬与一太郎の奉青という。岩瀬与一太郎は元佐竹の家人であり、源頼朝に仕え当地に封ぜられた。『相模風土記』には鶴岡職掌坂井越後が神職を兼ねていたと記されている。天明二年(一七八二)九月の再建棟札がある。岩瀬区の氏神社であり、明治六年十二月村社に列した。(神奈川県神社誌より)

境内掲示による五所稲荷神社の由緒

建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一太郎義正が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を願って創建、江戸期には鶴岡職掌、酒井越後が神職を兼ねていたと『相模風土記』にある。岩瀬氏は、常陸国奥七郡を支配していた佐竹孝義の嫡男、義政の近習で常陸国那珂郡大宮郷岩瀬(現、常陸大宮市上岩瀬)の岩瀬城城主であったが「吾妻鏡」によると治承四年(一一八〇)十一月、源頼朝による佐竹氏攻めの際、常陸国府中手前大矢橋(現、花園川にかかる大谷橋)で捕えられ、常陸国府中(現、石岡市)の頼朝本陣にて見参した際、頼朝に諫言し、その武勇を認められ家人となり当地に居を構えたと伝わっている。
その後天明二年(一七七二)旗本、木原家名主、栗田源左衛門政春等により百一両を投じて再建されたことが、棟札、古文書に記されている。天明の飢饉の折、御神威お発揚で基金を乗り越え民心を引き締め、神社では粥を張る舞い、村内の被害はわずかに終わり、これも五社明神のおかげと益々崇敬されたと伝わる。
明治六年村社に列し、昭和四十六年屋根銅板葺替工事、昭和五十六年~六十二年、神社本庁振興対策指定の折、社殿一部改修、手水舎新築等行い、平成十二年神輿の再建、平成二十年社務所の改築を行った。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による五所稲荷神社の由緒

(岩瀬村)
稲荷社
保食・大己貴・大田・倉稲魂・大宮姫の五座を祀て五社明神とも唱ふ村の鎮守なり、村持、建久中、岩瀬與一太郎奉行して建立すと傳ふ、幣殿・拝殿等あり、例祭九月廿九日鶴岡職掌坂井越後守神職を兼ぬ(越後が家傳に據に、祖時保當社の神職なりしを、文治中、職掌に補せられ、彼地に移れり、後年戰國の頃爰に退住せしに、文禄中復職す、故に兼職すとなり、)
末社。若宮(新編相模国風土記稿より)


五所稲荷神社の周辺図