比々多神社。延喜式式内社、相模国三宮
比々多神社の概要
比々多神社は、伊勢原市三ノ宮にある神社です。比々多神社の創建年代は不詳ですが、神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられ、大化元年(645)木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納、酒解神を合祀し、うずら瓶(県重要文化財)を奉納したといい、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座に比定される古社で、相模国三宮です。室町時代には戦災により荒廃したものの、天正19年徳川家康より社領10石の朱印状を拝領、明治時代には郷社に列格していました。
社号 | 比々多神社 |
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祭神 | 神倭伊波禮彦命 |
相殿 | 豊国主尊、稚日女尊、天明主命、日本武尊、大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花開邪姫神) |
境内社 | 秋葉神社等 |
祭日 | 例祭4月30日、国府祭5月5日 |
住所 | 伊勢原市三ノ宮1472 |
備考 | 三ノ宮明神 |
比々多神社の由緒
比々多神社の創建年代は不詳ですが、神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられ、大化元年(645)木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納、酒解神を合祀し、うずら瓶(県重要文化財)を奉納したといい、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座に比定される古社で、相模国三宮です。室町時代には戦災により荒廃したものの、天正19年徳川家康より社領10石の朱印状を拝領、明治時代には郷社に列格していました。
新編相模国風土記稿による比々多神社の由緒
(三之宮村)三宮明神社
當村及び栗原・神戸・白根四村の鎮守なり。當社は當国第三ノ宮にして「神名帳」に載る所、郡中四座の一、比々多神社なりと云傳ふ、華表に比々多神社と扁し、拝殿に三宮大明神の額を掲ぐ、按ずるに上糟屋村子易明神社も、式内比々多神社なる由云傳ふれど、両社共考證なく、是非辨じ難し、當社神主の話に、比々多神社と書せる古額ありしを、子易明神神主某に貸与へしが、終に返さずして、後彼社に比々多神社の額を掲げ、式社なる由稱せりと云、是も正き證はなし、祭神豊国主尊、天明玉命、稚日霊女尊の三座にして、大酒解神、小酒解神を相殿に祀る、神体秘して開扉せず、建久三年八月将軍頼朝夫人平産の祈として神馬を奉納せらる。東鑑曰、八月九日、御臺所音産気相模国神社佛寺被修誦経三宮冠大明神。社傳記、天保五年、神主兵部忠記の記なり、を閲するに、當社鎮座の地を往古比々多郷と唱へし故、此神號あり、又當国惣社を以て、中古は三之宮冠大明神、按ずるに東鑑に此神號を記す、を號す。古は社領若干ありしが、今近隣神戸村の唱へあるは、當社封戸たりし遺名なりと云、明應の頃より屢兵火に罹り、神領を失ひ、社人供僧等も離散して社頭甚衰微す。天正の始に至り、社地を今の地に移し、舊地は今の社地の北に続き、字埒免と唱ふる所なり、小社を造立して遷座す。十九年十一月社領十石を附せられ、御朱印を賜りしより、社頭漸く舊に復せりと云、此餘往古の事を記したれど、国史及び東鑑等に露顕せし惣国の神社に係りしことを、枚挙して當社の事とせり、尤此社も古社なれば、其事に輿りしもあるべけれど、其證なければ爰に採らず。又社頭の鐘銘には天平年中、鎌倉鎮将太郎太夫時忠の靈を祀りしとあり。曰、三宮大明神、本地慈悲不動明王霊場也、夫所謂宮地始者、聖武天王御宇、天平年中、當所占地、封建玉宮安置鎌倉鎮将太郎太夫時忠尊影、奉崇敬三宮大明神云々、別當福智山能満寺住持、傳法沙門執翁宗佛銘、神主大貫図書吉次、按ずるに、當時能満寺別当たりし事、寺にては傳へず。按ずるに、大山縁起に僧良辨を當国の良将、染谷太郎太夫時忠と記せり。是同人なるが、但此鐘銘延宝四年撰する所にして、今の社傳と大に異なり、尤信用しがたし。
例祭毎年五月五日。大祭と稱す、此日暁天より所々に篝火を焼、神主禰宜等供奉して、神輿を兒ぎ舊の社地邊を過り、神戸村に至り、化粧塚の上にて注連戸帳等を飾り、串橋村へ渡し、夫より通行の村々の民、其堺にて送迎し、金目村に暫く休憩して淘綾郡国府本郷町神揃山に到る、此時六所の宮の禰宜、異様の衣冠にて馬に騎り、途中に来て神輿を迎ふ、是を在聴と唱へり。一宮より五宮迄の神輿、神揃山に来て祭儀あり、帰輿の時は大綱二條、小綱二條を神輿に結付、山川田畑の嫌ひなく、道なき所を兒超ゆるを例とす、此日近郷より見物の者群をなせり。
六月十六日。小祭と唱ふ。此日祈願ある者、木綿の幟を納む、疫病流行の時、此幟を家内に建置ば、必ず其難を遁ると云。
拝殿・神楽殿等あり。
神寳。
木犬二軀。共に高さ一尺三寸餘、全体木理をあらはし至て古色なり、往古の國司布施朝臣布智が納めし物と云傳ふ。
甕一口。鶴亀と名付口直径六寸八分高一尺五分、石疑姥命作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験ありと云、其図上に出す。
古瓦一枚。扇形にて日の丸の紋あり、長五寸八分横九寸八分、布目あり、是舊の社地より堀得しと云、図左の如し。
鐘楼。延宝四年の鐘を懸。
末社。神明、金毘羅、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。
神木松樹二株。一は囲一丈八尺、一は一丈二尺、あり。
神職大貫左近。地々に住す。白川家の配下なり、祖先図書安重、明暦年中死、より十代相続せり。(新編相模国風土記稿より)
境内掲示による比々多神社の由緒
神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられる。崇神天皇の御代神地神戸を奉られ大化元年(645)社殿修復の際、木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納又此年に酒解神を合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。天平十五年(七四三)大宮司に竹内宿禰の後孫紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命勅して荘園を賜う。真田を称す。天長九年(八三二)六月国司橘朝臣峯嗣を勅使として相模国の惣社として冠大明神の神号を奉られた。鎌倉時代にはいり将軍源頼朝が文治元年(一一八五)に国土安泰の御願書を奉り、建久三年(一一九二)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。南北朝室町時代に戦さに巻込まれ神領の大半を失い衰微したが徳川時代当社が相模国の名社であることを知った家康公より社領を新に寄進され以下十四代将軍まで続いた。よって社運も持直し、明治時代には、社格は 社とし社格制度廃止後指定神社となる。(境内掲示より)
比々多神社所蔵の文化財
- うずら瓶(県重要文化財)
- 木彫の狛犬一対(市重要文化財)
比々多神社の周辺図