伊勢原大神宮。伊勢原市伊勢原の神社

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伊勢原大神宮。伊勢原の開墾に着手した元和6年頃に勧請

伊勢原大神宮の概要

伊勢原大神宮は、伊勢原市伊勢原にある神社です。伊勢原大神宮は、伊勢国出身の山田曾右衛門と鎌倉出身の湯浅清左衛門が当地伊勢原の開墾に着手した元和6年(1620)頃に、当地に鎮守として伊勢神宮を勧請して創建したといいます。

伊勢原大神宮
伊勢原大神宮の概要
社号 伊勢原大神宮
祭神 天照大御神(内宮)、豊受姫大神(外宮)
相殿 -
境内社 春日神社、稲荷総社
祭日 -
住所 伊勢原市伊勢原3-8-1
備考 -



伊勢原大神宮の由緒

伊勢原大神宮は、伊勢国出身の山田曾右衛門と鎌倉出身の湯浅清左衛門が当地伊勢原の開墾に着手した元和6年(1620)頃に、当地に鎮守として伊勢神宮を勧請して創建したといいます。

新編相模国風土記稿による伊勢原大神宮の由緒

(伊勢原村)神明社
村の鎮守なり、内外の両社並び建り、拝殿・神楽殿・供所等あり、内宮の神体銅像、長二寸、背に運慶十九代、大佛師田中刑部正徳四年午五月吉日と彫れり、外宮神体木像、長四寸一分、背後の銘上に同、當村開墾の頃勧請せし所にて、伊勢の神廟に擬し、二十一年目毎に社頭修理を加へ、遷宮の式あり、例祭六月十五・十六の両日なり、村持。
末社。愛宕虚空蔵不動合祀、愛宕は村民加藤氏の者勧請す、鐘楼あり、享保十六年の鋳鐘をかく、序銘あり、文中に當村開墾及本社勧請等の事を載、土人の傳に異ならず。
稲荷、三峰、恵比須、道祖神、大黒秋葉、辨天、天神、八幡、天王、金比羅。
社僧神宮寺。照見山と號す、普化禅宗、武蔵国青梅鈴法寺末、本社と同時の起立にて開祖雲晴風月、寛永十三年七月十一日卒、宗祖普化の画像を本尊とす。(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による伊勢原大神宮の由緒

当社の創建は、江戸時代初期の元和年間(一六一五〜一六二四)のことであると伝えられております。
元和六年(一六二〇)伊勢の国の人、山田曾右衛門と鎌倉の人・湯浅清左衛門は、大山参詣の途中、千手原という松原に一夜の宿を求めたところ、水音を聞いて開墾可能であることを悟り、当時このあたりを支配していた中原代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手したのです。そこにだんだんと粕屋あたりより人が集まり、現在の伊勢原市街の基礎が形成されました。曾右衛門は、この新しい開拓地の鎮守として、故郷である伊勢の神宮の神様を勧請し、奉斎することにいたしました。こうして創建された当社の御祭神に由来して当地は伊勢原と呼ばれるようになりました。
伊勢の神宮では、天照大御神が内宮に、豊受姫大神が外宮に、それぞれ奉斎されています。当社もこれにならい両宮が別々に奉斎されています。全国でも珍しい社殿構造は、江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」にもみられ、創建以来の伝統として現在も受け継がれております。境内には神宮遥拝所が設けられ、当地より伊勢の神宮をお詣りすることができます。(境内掲示より)


伊勢原大神宮所蔵の文化財

  • 照見山神宮寺遺跡

照見山神宮寺遺跡

伊勢原の町が開かれたのは江戸時代のはじめ、元和年間(一六二〇年頃)と伝えられています。旧神明社(大神宮)創建と同じころ、神社の管理に当たる別当寺が境内に置かれ、それが照見山神宮寺という普化禅宗の寺でした。
普化宗は中国(唐)の普化禅師を祖として、鎌倉時代に禅僧と共に渡来したと言われ、尺八の音と結びついて広まりました。
普化宗の僧は虚無僧と呼ばれ、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護もあって武士が入門し、寺の通行手形を持って全国往来が自由でした。
天蓋をかぶり、免状(本則等)をふところに尺八を吹き、托鉢吹禅をしながら各地を歩いて修行を重ねました。
虚無僧が吹いた尺八の曲は、無名の人々によって吹き継がれ、今日に至っています。
普化宗は、明治四年太政官布告により廃宗となり、神宮寺の建物は明治七年には、一時期、伊勢原小学校の前身として使われましたが、今は境内に石灯篭を残すのみです。
照見山神宮寺は活惣本山鈴法寺(東京都青梅市)末寺頭として相模、足柄、小田原、伊豆一円を寺場とし巡回した記録が残されています。
鈴法寺で幕府と普化宗についての多くの記録を残している嘯山勇虎をはじめ神宮寺歴代の墓は大福寺にあります。(照見山神宮寺奉賛会掲示より)


伊勢原大神宮の周辺図