山聞修寺。厚木市小野にある臨済宗南禅寺派寺院

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龍澤山聞修寺。足利尊氏尊の茶の師匠思賢が創建

聞修寺の概要

臨済宗南禅寺派寺院の聞修寺は、龍澤山と号します。聞修寺は、足利尊氏尊の茶の師匠でもあった紀州由良興国寺の住持思賢が延文年間(1456-1361)に創建したと「高僧傳」に記載され、通方明道禅師(応永元年1395年寂)が明徳2年(1392)に開山、最盛期には34の子院を擁していたといいます。明応年間(1492-1501)、小田原北条氏の七沢城攻撃に祭して焼失、寛永年間(1624-1645)に入り南窓和尚が中興、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。明治初年の廃仏毀釈令により基盤を失ったものの再建しています。

聞修寺
聞修寺の概要
山号 龍澤山
院号 -
寺号 聞修寺
本尊 釈迦牟尼仏像
住所 厚木市小野1221
宗派 臨済宗南禅寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



聞修寺の縁起

聞修寺は、足利尊氏尊の茶の師匠でもあった紀州由良興国寺の住持思賢が延文年間(1456-1361)に創建したと「高僧傳」に記載され、通方明道禅師(応永元年1395年寂)が明徳2年(1392)に開山、最盛期には34の子院を擁していたといいます。明応年間(1492-1501)、小田原北条氏の七沢城攻撃に祭して焼失、寛永年間(1624-1645)に入り南窓和尚が中興、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。明治初年の廃仏毀釈令により基盤を失ったものの再建しています。

新編相模国風土記稿による聞修寺の縁起

(小野村)
聞修寺
龍澤山と號す、臨済宗(武蔵國多磨郡山田村廣園寺末、)明徳二年起立す(鐘銘に彫せり)本尊観音、開山通方明道(應永元年五月八日卒、)按ずるに、【高僧傳】に紀州興國寺の住持思賢當寺を創せし事見ゆ、(曰、釈思賢號無住、世姓藤氏、華山院右丞相家忠之裔也、慕法燈國師之禅、捨錦倚、随毳衣久之、有所悟、住紀興國洛西玅光、道價負重、創相之聞修寺、爲第一代、)思賢は足利尊氏尊茶の佛事を勤めし人なり(長壽寺殿奠茶佛事曰、云々賢滅後、門人樹塔鷲峰、曰普濟、)然れば明道實は中興開山なるべし、慶安二年寺領十石の御朱印を賜ふ、往古は三十四の子院ありしとて今其院號のみを傳ふ、
鐘樓。延寶六年の鐘を掛、
天神社
弁天社(新編相模国風土記稿より)

厚木市史史料による聞修寺の縁起

竜潭山聞修寺(小野1221)
梵鐘(延宝六年小田近江守正次作)の鐘銘によれば明徳ニ年(一三九二)の開創と伝え、開山は通方明道禅師応永元年(一三九五)五月八日示寂
高僧伝によれば紀州(和歌山県)由良興国寺の住持、思賢が当寺を創始したと云う。
曰、釈思賢号無住、世姓藤氏、華山院右丞相家忠之裔也
慕法燈国師之禅、捨錦倚、随毳衣久之、有所悟、住紀興国洛西玅光、道価負重、創相之聞修寺、為第一代、
長寿寺殿酋茶仏事曰、云々賢滅後、門人樹塔鷲峰、曰普済開山と伝えられる通方明道禅師は中興開山か。近世、慶安二年(一六四九)寺領十石の御朱印を賜う。古くは三十四の子院がこの附近にあったと伝えられ、その子院の名称は、聞蔵寺、瑞塡庵、瑞光庵、清涼軒、悟直庵、雲居庵、本善庵、雨清庵、西福庵、桂雨庵、眞泳庵、常光庵、金竜庵、林昌庵、撲陽庵、堪光庵、常慶庵、運竜庵、東福院、清光院、光臨庵、大宝庵、竜泉庵、東陽軒、光連庵、宝徳庵、奄仙庵、光福庵、洞泉庵、泉泳庵、向陽院である。
この様な大規模な大伽藍があった事は、当時この地の七沢城主上杉氏の支援があった事が考えられ、明応年間、小田原北条氏の攻撃による七沢落城の時に聞修寺もその厄にあい山門のみを残して焼失して終った。その後久しく滅寺の状態であったが、寛永年中武蔵国多摩郡山田村広園寺第三十九世、山英令応和尚の法嗣、南窓和尚が中興開山となり滅寺になろうとした本寺の再建を行った。その後明治初年同寺の壇徒の大部分が神式葬祭に改めたため再度、廃寺の状態となった。しかし今は壇徒の人々の復帰する者も多くなり、本寺広園寺の兼務により永続をした。
本寺八王子市広園寺の位牌その他の記録により世代の一部を知る事が出来る。境内に残る庭園祉は近世の最盛期の遺物であり、その山門は室町時代の盛時を物語るものである。(「厚木市史史料」より)


聞修寺所蔵の文化財

  • 聞修寺山門(附扁額)

聞修寺山門(附扁額)

聞修寺は、延文年間(一三五六年〜六一年)に造られたとも、明徳二年(一三九一年)に開かれたとも言われ、多くの子院を持つ大寺院であったと伝えられている。
参道に立つ山門は、全体の大きさに比べて柱が太く、木太い柱割りが特長で、腰に長押を回しているなど、中世以来の本格的な形式です。
虹梁の上にある板蟇股には紋章が彫刻されています。この紋章は近世期に家紋として定着する以前の古様と考えられます。屋根は茅葺きであったが改修され、軒も飛檐垂木が切断されているため、本来の風格が失われています。
山門には、寺の山号を示す「龍潭山」の扁額がかかっています。
額の左隅に仰堂宗高(一六二八年〜八七年)と考えられる落款があります。額の状態や仰堂宗高の作とすると、山門の建立された後に、かかげられたものと考えられます。(厚木市教育委員会掲示より)

聞修寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」