岡田山永昌寺。厚木市岡田にある曹洞宗寺院

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岡田山永昌寺。厚木市岡田にある曹洞宗寺院

永昌寺の概要

曹洞宗寺院の永昌寺は、岡田山と号します。永昌寺は、密宗の僧待翁が貞応2年(1223)、当地にあった観音堂に寓居して観音堂を補陀落院と称していたといいます。その後桂林という僧侶が当地にあった地蔵堂に住み着き、元徳元年(1329)に観音堂に住み着いたことから、地元では観音堂を桂林寺と称していたといいます。さらに降って戦国時代に伊豆蔵春院の住僧湖翁能音が当地に止錫、村民が力をあわせて永正17年(1520)に一寺としたといいます。

永昌寺
永昌寺の概要
山号 岡田山
院号 -
寺号 永昌寺
本尊 正観音像
住所 厚木市岡田4-29-14
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



永昌寺の縁起

永昌寺は、密宗の僧待翁が貞応2年(1223)、当地にあった観音堂に寓居して観音堂を補陀落院と称していたといいます。その後桂林という僧侶が当地にあった地蔵堂に住み着き、元徳元年(1329)に観音堂に住み着いたことから、地元では観音堂を桂林寺と称していたといいます。さらに降って戦国時代に伊豆蔵春院の住僧湖翁能音が当地に止錫、村民が力をあわせて永正17年(1520)に一寺としたといいます。

新編相模国風土記稿による永昌寺の縁起

(上岡田村・下岡田村)
岡田山と號す、曹洞宗(津久井縣根小屋村功雲寺末、)古は觀音堂なりしが貞應二年、密宗の僧待翁と云者寓居して堂を補陀落院と號す、待翁卒後桂林と云僧村内地蔵堂(今廢し、本尊は當寺に置、)に住せしが、元徳元年此堂に移住す(地蔵堂を兼帶す、)是より土人桂林寺と稱せり、其後衰廢せしに豆州蔵春院の住僧湖翁能音、兵亂を避て當寺に錫を止む、此時村民四人(高橋・細野・石井・飯島等の四氏なり、今に子孫村民たり、但細野氏祖先は石見守と稱し、北條氏の臣なりしと云、)力を合せ、堂宇を造營して能音(本寺七世、天文三年十一月十五日卒、)を開山とし、今の宗派に改め、且山寺號をも改稱す、是永正十七年九月なりと縁起に見えたり、本尊正観音(長一尺七寸、運慶作、鱣觀音と號す、是は古村内惡水堀より數多の鱣境内に来り、本尊を禮拝するが如し、依て此號ありと云、今も彼堀を鱣堀と唱へり、)(新編相模国風土記稿より)

厚木市史史料による永昌寺の縁起

岡田山永昌寺(岡田1279)
古は観音堂なりしが貞応二年密宗の僧待翁と云う者寓居して堂を補陀洛院と号す。待翁卒後桂林と云う僧、村内地蔵堂(今廃し本尊は当寺に置く〉に住せしが元徳元年此の堂に移住す。地蔵堂を兼帯せり。其の後衰廃せしが豆州蔵春院の僧湖翁能音。兵乱を避けて当寺に錫を止む。此の時の村民四人高橋、細野、石井・飯島等の四氏なり。今に子孫村民たり、但細野氏祖先は石見守と称し北条氏の臣なりと云う。力を合せ堂宇を造営して能音本寺七世(天文三年十一月十五日卒す)を開山とし今の宗派に改め且つ山寺号を改称す。永正十七年九月なりと縁起に見えたり。(風土記)(「厚木市史史料」より)


永昌寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」