親縁山弘徳寺。厚木市飯山にある浄土真宗本願寺派寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

親縁山弘徳寺。親鸞上人の子善鸞上人所縁の地、信楽坊開基

弘徳寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の弘徳寺は、親縁山心光院と号します。弘徳寺は、親鸞上人が巡錫した当地に、親鸞上人の子善鸞上人が親縁山心光院と号して庵を創建したといいます。善鸞上人の弟子浄念が没後、(親鸞上人の弟子で相馬四郎義清・信楽坊が創建した)茨城県岡田郷弘徳寺が兼帯していたといいます。文禄年間に入り、僧榮西(上杉五郎朝定の子)が、当地の領主内藤修理亮清成と謀り、弘徳寺の名跡を当地に移転、信楽坊を開基、榮西を中興開基と定めたといいます。慶安2年(1649)には幕府より寺領29石3斗の御朱印状を受領しています。

弘徳寺
弘徳寺の概要
山号 親縁山
院号 心光院
寺号 弘徳寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 厚木市飯山4501
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



弘徳寺の縁起

弘徳寺は、親鸞上人が巡錫した当地に、親鸞上人の子善鸞上人が親縁山心光院と号して庵を創建したといいます。善鸞上人の弟子浄念が没後、(親鸞上人の弟子で相馬四郎義清・信楽坊が創建した)茨城県岡田郷弘徳寺が兼帯していたといいます。文禄年間に入り、僧榮西(上杉五郎朝定の子)が、当地の領主内藤修理亮清成と謀り、弘徳寺の名跡を当地に移転、信楽坊を開基、榮西を中興開基と定めたといいます。慶安2年(1649)には幕府より寺領29石3斗の御朱印状を受領しています。

新編相模国風土記稿による弘徳寺の縁起

(飯山村)弘徳寺
親縁山心光院と號す同末(浄土真宗西六條本願寺末)本尊彌陀(長二尺二寸安阿彌作)、相傳ふ當所は親鸞駐錫の舊蹟(當時地蔵堂あり今廢すと云)たるを以て善鸞(親鸞の子)草庵を結び親縁山心光院と號し、弟子浄念と共に住す、弘安元年善鸞臨終に及て(當寺に墓あり)浄念に附属す、浄念滅後は下総國新堤村(岡田郡の屬、今山新地村と云)弘徳寺の住僧兼帶す、彼寺は親鸞の開基にして弟子信楽をして住職せしめし道場なり、然るに彼寺後年退轉に及びしを以て文禄の頃僧榮西當所に移し庵室と合して、一寺再建の志を興し、内藤修理亮清成に就て公の許可を得、遂に再建落成すと云、故に信楽(俗稱相馬四郎義清と云、建暦元年越後の國府にて親鸞の弟子となる、永仁二年二月廿八日卒、)を開基、浄念を二世、榮西(上杉五郎朝定の子にて、母は淺羽近江行隆の女、河越にて討死し、孤となりしを母方の叔父淺羽若狭行房介抱して相州國府津眞楽寺の住侶を賴、彼寺にて成長なし、外戚の氏を胃して淺羽甚五左衛門と稱し、十九歳にて削髪す、能書にて且連歌を善くす、故に清成とも交り深かりしとなり、慶長八年七月十三日卒、即當寺の十二世也)を中興開基とす、慶安二年八月寺領二十九石三斗餘の御朱印を賜ふ、
【寺寶】
彌陀像一軀。親鸞作
地蔵像一軀。往昔地蔵堂の本尊と云、
十字名號一幅。親鸞筆、善鸞に附属の物と云、
六字名號二幅。一は親鸞筆にて開基信楽に授與、一は文明九年蓮如關東に下向して當寺に逗留の時、自ら書して授與と云、
和讃二本。是も蓮如の筆、同時の授與と云、
親鸞分骨一顆。
顯如自畫像一幅。天正十二年十二月顯如の裏書あり、
鐘楼。鐘は萬治三年の鑄造なり、
松樹。一葉の松なり圍一丈許親鸞の手植と云、
子院。永吟坊・光善坊共に今廢す、(新編相模国風土記稿より)

厚木市史史料による弘徳寺の縁起

親縁山心光院弘徳寺(飯山455)
親鸞が、東国巡教の砌に駐錫した旧蹟のため、親鸞の子、善鸞がここに草庵を結び、親縁山心光院と号して、弟子浄念と共に居住したが、弘安元年善鸞の臨終に及んで、浄念に附属された。浄念の滅後は、下総国弘徳寺住僧の兼帯するところとなり、文禄の頃に僧栄西が、彼の寺を当所に移転し、当院と合して、一寺を再建したといぅ。彼の弘徳寺は、親鸞がこれを創建して、その弟子信楽を住職とした由緒ある寺で、信楽を開基、浄念を二世、栄西を中興の開基としている。慶安二年に、徳川氏より二十九石三斗余の朱印地を寄進さる。因に親鸞が、越後国の国府に配流された時に、相馬太郎義清という人が帰依して、その弟子となったが、本寺開基の信楽房が、すなわちその人である。(「厚木市史史料」より)


弘徳寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」