長谷山福昌寺。厚木市長谷にある曹洞宗寺院

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長谷山福昌寺。長谷観音像

福昌寺の概要

曹洞宗寺院の福昌寺は、長谷山と号します。福昌寺は、当村に留錫した曹洞宗陽月禅師が、当地に安置されていた観音堂を見て永正8年(1511)一寺を創建、長谷山福昌寺と号したといいます。
この観音堂は、天喜・康平(1053-1064)の頃に某阿闍梨が大和長谷寺の御真影(長谷観音)を当地に安置して蓬莱山長谷寺と称し、当地名の由来となったもので、文明年間(1469-1486)の戦乱で堂宇は灰燼に帰したものの長谷観音像は泉の中で無事だったことから、村民が観音堂を作り守ってきたものだといいます。

福昌寺
福昌寺の概要
山号 長谷山
院号 -
寺号 福昌寺
本尊 正観音像
住所 厚木市長谷1600
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



福昌寺の縁起

福昌寺は、当村に留錫した曹洞宗陽月禅師が、当地に安置されていた観音堂を見て永正8年(1511)一寺を創建、長谷山福昌寺と号したといいます。
この観音堂は、天喜・康平(1053-1064)の頃に某阿闍梨が大和長谷寺の御真影(長谷観音)を当地に安置して蓬莱山長谷寺と称し、当地名の由来となったもので、文明年間(1469-1486)の戦乱で堂宇は灰燼に帰したものの長谷観音像は泉の中で無事だったことから、村民が観音堂を作り守ってきたものだといいます。

新編相模国風土記稿による福昌寺の縁起

(長谷村)
福昌寺
長谷山と號す、曹洞宗(下古澤村龍栖寺末、)本尊正観音開山陽月大暁(天正十年十一月四日卒、)
白山社(新編相模国風土記稿より)

厚木市史史料による福昌寺の縁起

長谷山福昌寺(長谷1600)
長谷観音略縁起(当福昌寺と因縁深し)長谷観音は日本全国の三長谷観音と称し天喜・康平の頃某阿闇梨が大和長谷寺より御真影を移され、その当時此山を蓬莱山長谷寺と名付け建立す。即ち本尊は大和の長谷観音の十分の一の御丈け二尺六寸の十一面観音菩薩を遷座し後遂に廃衰して宝治二年三月北条時頼鎌倉の戌亥除に観音菩薩の堂舎を修繕して真言宗福寿院長谷寺の別当として村名を長谷と名をつけて文明年間に至り、上杉甲斐の両兵当国に侵入して戦端を聞き、この時右寺は堂塔伽藍宝物書類共兵火のため灰滅し、此の山上に某阿闇梨が開創の時開掘した泉水あり、今に至るも減水を見ず兵火の時幸に観音菩薩は泉池に在って御尊体に一点の傷なく村民其霊験の顕著なるを驚きよって小庵を結び安置す。そして永正八年曹洞宗陽月禅師当村に留錫し、観音の霊場を見て一寺を創設し長谷山福昌寺と号し、以来明治維新の世変に遇もここに四百五十七年間当寺が別当として、当寺十三世の大船和尚が十方の道俗に浄財を乞い、宝暦三年九月に再建しが明治二十七年四月、再び大破した堂字を村民の自力及ばず十方の有志者に浄財を乞い、当山二十九世梁円和尚のもとに修繕を加え明治二十七年四月三日より五日まで観音菩薩の開扉を致した。昭和二十一年頃に焼けたが観音菩薩と閻魔大王は無事なり。(「厚木市史史料」より)


福昌寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」