旧智音寺。厚木市旭町にあった真言宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

旧摂光山智音寺。現智音神社、鬼子母神堂

旧智音寺の概要

真言宗寺院だった智音寺は、摂光山往生院と号していました。旧智音寺は、厚木氏の館跡と伝えられる地に天正年間(1573-1593)に開山、徳川家康関東入国後の天正19年(1591)には寺領3石の御朱印状を受領、江戸期には牛頭天王社の別当寺を務めていました。神仏分離令によって智音寺は廃寺となり、神式葬祭場と改称したといいます(現在は智音神社の幟が掲げられています)。境内の鬼子母神堂は、当地より南方の「十羅刹の元屋敷」に祀られていましたが、所在不明となり、いつしか高部源兵衛邸内に移されていたもので、明治初年頃改めて「十羅刹の元屋敷」に祀られていたもので、大正11年頃、当地へ移されたといいます。

旧智音寺
旧智音寺の概要
山号 摂光山
院号 往生院
寺号 智音寺
本尊 -
住所 厚木市旭町2-11-19
宗派 真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



旧智音寺の縁起

旧智音寺は、厚木氏の館跡と伝えられる地に天正年間(1573-1593)に開山、徳川家康関東入国後の天正19年(1591)には寺領3石の御朱印状を受領、江戸期には牛頭天王社の別当寺を務めていました。神仏分離令によって智音寺は廃寺となり、神式葬祭場と改称したといいます(現在は智音神社の幟が掲げられています)。境内の鬼子母神堂は、当地より南方の「十羅刹の元屋敷」に祀られていましたが、所在不明となり、いつしか高部源兵衛邸内に移されていたもので、明治初年頃改めて「十羅刹の元屋敷」に祀られていたもので、大正11年頃、当地へ移されたといいます。

新編相模国風土記稿による旧智音寺の縁起

(厚木村)智音寺
古義真言宗高座郡河原口惣持院末、攝光山往生院と號す、本尊三尊の彌陀(中尊長三尺二寸五分、行基作、脇立長各一尺九寸五分、共に運慶作)、天正十九年寺領三石の御朱印を賜ふ、
地蔵堂(新編相模国風土記稿より)

厚木市史史料による旧智音寺の縁起

摂光山往生院智音寺(跡旭町小字川田前)
室町時代中頃、厚木氏の館跡と伝えられる同寺は天正年間の開山で天正十九年寺領三石の御朱印を下賜され、江戸時代には牛頭天王社の別当となる。明治初年神仏分離令によって廃寺となり、それ以来、神式葬祭場と改称した。墓地はそのままで、壇徒の多くは神式葬祭となった。(「厚木市史史料」より)


厚木市史史料による鬼子母神堂の縁起

鬼子母神堂(跡旭町南境十羅刹)
新編相模国風土記「鬼子母神堂蹟南境十羅剃にあり、廃せし年代を失う」その後、明治初年厚木町天王町高部源兵衛方土蔵より鬼子母神像が発見され、元の堂跡に堂宇が再建された。この所に次の碑が残っている。(碑文省略)
大正十一年の頃 堂宇を旭町 旧智音寺境内に移転した。(「厚木市史史料」より)

境内掲示による鬼子母神堂の縁起

鬼子母神堂由来
智音寺境内の鬼子母神の由来を述べますと明治の初め、現在の厚木市東町二の三の所に六代目高部源兵衛という呉服豪商がおり町でも一・二を競う繁盛をしておりました。
ある夜のこと源兵衛の夢枕に鬼子母神が顕れて十羅刹の元屋敷に鬼子母神を祀るようお告げがありました。
驚いた源兵衛は土蔵の中にあった仏像が鬼子母神であったことから恐れおののき早速元屋敷(現旭町四丁目五の十一)に立派なお堂を建て鬼子母神を祀りこみ盛大に供養祭を行ったという。
その後は毎月の八日を縁日とし、沢山の露天商も出て大正末期までは大変賑わったがいつか智音寺の境内に移されてからは訪れる人も少なくなりました。
この鬼子母神堂が風雪と共に破損し、今にも朽ち果てようとするその哀れさに、厚木南地区文化を考える会が尊像の修復と堂宇を再建のため浄財を募り完成したのがこのお堂です。
厚木南地区文化を考える会(境内掲示より)

旧智音寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」