金田神社。厚木市金田の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

金田神社。船来田明神社として創建、金田の鎮守

金田神社の概要

金田神社は、厚木市金田にある神社です。金田神社は、仁治2年(1241)金田の地頭本間重連が鎌倉幕下の家人杉山将監弘政に命じて創建、船来田明神社と号していたといいます。永禄年間(1558-1569)小田原北条と武田信玄との戦いに際して焼失、その後再建され、江戸期には金田村の鎮守社でした。明治7年地内の諸社を合併、金田神社と改称しています。

金田神社
金田神社の概要
社号 金田神社
祭神 豊玉姫命
相殿 -
境内社 金毘羅社、御嶽社、秋葉社、天神社
祭日 例大祭4月28日
住所 厚木市金田172
備考 -



金田神社の由緒

金田神社は、仁治2年(1241)金田の地頭本間重連が鎌倉幕下の家人杉山将監弘政に命じて創建、船来田明神社と号していたといいます。永禄年間(1558-1569)小田原北条と武田信玄との戦いに際して焼失、その後再建され、江戸期には金田村の鎮守社でした。明治7年地内の諸社を合併、金田神社と改称しています。

新編相模国風土記稿による金田神社の由緒

(金田村)
船来田明神社
村の鎮守なり、神號を或は船来とも書す、其唱は同じ、祭神を知らず、按ずるに【和名鈔】當郡の號名に船田あり、當社など其遺名にや、されど厚木村に同名の社あれば執が其原社なるは知るべからず(事は厚木村に詳なる、)本地薬師を安ず、例祭六月廿日、杉山将監弘政と云者の勧請と云(事跡年代詳ならず)
末社。秋葉、稲荷、天満宮
別當神禅寺。船来山と號す、當山修験(勢州山田世儀寺末)中興開山典盛(享保十八年六月廿二日卒、)本尊不動を置、
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御嶽社
往古は當社を村鎮守とせしと云、石佛を神體とす(地蔵の如し、裏に延寶四年とあり、)神禅寺持、
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第六天社
村持(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による金田神社の由緒

当社は仁治二年(一二四一)二月本間重連が創立した。永禄年間(一五五八~一五六九)小田原北条武田信玄との戦いの際兵火に権り社殿古文書悉く灰燼となった。元禄十二年(一六九九)一一月再建したが雷火によって焼失現今の社殿は明和七年(一七七〇)十一月建立したもので船喜多明神と称した。明治七年十二月二十七日雑社を合併し金田神社と改称した。(神奈川県神社誌より)

「厚木市史史料」による金田神社の由緒

金田神社(金田宮畑)
新編相模風土記に「船来田明神社、村の鎮守なり、神号を或は舶来とも書す、其唱は同じ、祭神を知らず、按ずるに知名紗当郡の郷名に船田あり、当社など其遺名にや、されど厚木村に同名の社あればいづれが其原社なるは知るべからず、本地薬師を安ず、例祭六月廿回船喜田社縁起によれば仁治二辛丑年(一二四一)二月上旬この地の地頭本間六郎左衛門尉重連、杉山将監弘政に命じて当社を創建せしめた。次いで同三年、本殿の外、拝殿・廊中門・宝蔵惣門・鐘楼等を増築せしめた」とある。(「厚木市史史料」より)


境内掲示による金田神社の由緒

当神社は仁治二年(一二四一)金田の地頭本間重連が鎌倉幕下の家人杉山将監弘政に命じて創立した。
祭神は海神の豊玉姫命で旧名を船来田神社と称し明治七年に神仏分離令により金田神社と改めた。
平成二十八年五月(境内掲示より)

金田神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌
  • 「厚木市史史料」