早雲寺。足柄下郡箱根町にある臨済宗大徳寺派寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

金湯早雲寺。北條早雲開基、小田原北條氏菩提寺

早雲寺の概要

臨済宗大徳寺派寺院の早雲寺は、金湯山と号します。早雲寺は、大永元年(1521)北條早雲の遺命により、その子氏綱が大徳寺の宗清以天和尚(正宗大隆禅師)を招いて創建、以来北條氏一門の菩提寺として、関東第一の名刹と謳われたものの、豊臣秀吉の小田原攻めに際して焼失、時の住僧明叟は、小田原城内で飲食を断ち遷化したといいます。その後狭山北條氏・玉縄北條氏の外護により再興、慶安元年(1648)には、境内山林不入の御朱印を拝領し旧観を取り戻したといいます。

早雲寺
早雲寺の概要
山号 金湯山
院号 -
寺号 早雲寺
住所 足柄下郡箱根町湯本405
宗派 臨済宗大徳寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



早雲寺の縁起

早雲寺は、大永元年(1521)北條早雲の遺命により、その子氏綱が大徳寺の宗清以天和尚(正宗大隆禅師)を招いて創建、以来北條氏一門の菩提寺として、関東第一の名刹と謳われたものの、豊臣秀吉の小田原攻めに際して焼失、時の住僧明叟は、小田原城内で飲食を断ち遷化したといいます。その後狭山北條氏・玉縄北條氏の外護により再興、慶安元年(1648)には、境内山林不入の御朱印を拝領し旧観を取り戻したといいます。

境内掲示による早雲寺の縁起

早雲寺は、大永元年(一五二一)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており北條文化を語るのに欠くことのできない寺です。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による早雲寺の縁起

(湯本村)早雲寺
金湯山と號す、臨済宗(紫野大徳寺末)、本尊釈迦(長一尺三寸、運慶作)、兩脇文殊普賢(長九寸五部、同作)、當寺は北條左京大夫氏綱、先考早雲庵宗瑞の遺言に任せ建立する所にて、大永元年落成す、故に今早雲を以て開基と稱す、(注釈を読む)
則紫野の宗清以天和尚を請て、開山第一世となす、後勅して正宗大隆禅師と號せり、(注釈を読む) 天文十一年六月、勅願寺とせらる、(其綸旨今に傳ふ、曰、當寺爲勅願之浄刹、致佛法之紹隆、宜奉祈皇家之再興者、天氣如此、仍執達如件、天文十一年六月廿四日、早雲寺大隆禅師禅室、左大辨花押、【北條五代記】曰、早雲寺靈驗新なるが故に、綸旨を被下、勅願寺と號し、關東第一の名寺なり、下萬民に至るまで、渇仰の頭を傾ずと云ことなし、)
當寺は永楽百七十六貫九百二十文の寺領を寄附あり、(注釈を読む)
天正十八年四月朔日、豊太閤小田原城を攻る時、寺内へ本陣を据へらる、(注釈を読む)
九日、秀吉石垣山の陣營に移れり、(九日秀吉湯本の眞覺寺に屯を張り、笠懸山に陣營を構へ、秀吉笠懸山の陣城にうつる。)
時の住僧明叟、此亂を避て城内に入しが、數代の檀越滅亡を傷み、飲食を斷て、同月十五日卒せり、(注釈を読む)
此後衰替して僅に寺名を存するのみなり、(【北條五代記】曰、如此の靈寺たりと雖も、末代に至て破却し、なきが如し、皆是昔語となり、今は早雲の寺號ばかりぞ殘ける。)
然るに慶安元年八月、境内山林不入の御朱印を賜はり、漸く舊觀に復せり、(寺域東西二十八町、南北二十町餘、)
中興の僧菊徑存和尚と云、寛永四年六月二十一日卒、
本堂九間に六間の襖に、龍虎の墨畫あり、古法眼元信の筆なり、
【寺寶】
北條五代畫像各幅。(注釈を読む)
宗祇法師畫像一幅。(注釈を読む)
會席椀十具。(注釈を読む)
表門。金湯山の額をかく、(韓人雪峯の筆。)
山門。西國三十三所觀音の模像を置、圓通閣の額を掲ぐ、(源純覺筆。)
鍾樓。序銘漫滅し、纔に元徳二年六月五日の文字を見るのみ。
地蔵堂。石像を置、長三尺、弘法大師作。
昭堂
北條氏墳。本堂の乾丘上にあり、五基相並り、碑背に寛文十二年八月十五日、從五位北條伊勢守平朝臣氏治再建の由を彫る、按ずるに氏綱當所に葬りし事は、【小田原記】にも見ゆ、(注釈を読む)
宗祇法師墓。北條氏墳の東にあり、宗祇は種玉庵芳蘭と號し、連歌に長ぜるを以て世に聞ゆ、文龜二年七月晦日、此地にて卒す、【終焉記】を閲るに、遺骸は駿州桃園定輪寺に葬れば、當所の墳は、終焉の舊蹟なるを以て、建立せしならん、塔の四面に數字を彫たれど、漫滅して讀べからず、其圖は左に載す、(注釈を読む)
今大路道三墓。墓所の入口にあり、五輪塔なり、高七尺、寛永三年九月十九日卒、(注釈を読む)(新編相模国風土記稿より)


早雲寺所蔵の文化財

  • 北條五代の墓

史跡北條五代の墓

天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。
七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹・氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城にあった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石を許され(狭山北條氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石をあたえられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。
早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山壱七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外護は欠かせないものであった。
こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したのである。小田原北條氏滅亡から八十二年後のことである。(境内掲示より)

早雲寺の周辺図