鑁阿寺。栃木県足利市家富町にある真言宗大日派寺院

猫の足あとによる首都圏外寺社案内

金剛山鑁阿寺。真言宗大日派大本山、関東八十八ヶ所、足利義兼が出家して居館に創建

鑁阿寺の概要

真言宗大日派寺院の鑁阿寺は、金剛山と号します。鑁阿寺は、源(足利)義国の孫足利上総介義兼が、源氏の守り本尊大日如来を本尊として文治5年(1849)居館の境内に持佛堂を建立して創建、保元・平治の乱など源平の騒乱に無常を感じて出家し、法号を「鑁阿」としたといいます。義兼の子左馬頭義氏は大御堂を修築した他、十二支院を建立、その後足利市累代の寄進により七堂伽藍を備えた大寺院となり、足利氏が室町幕府を開いた将軍家となると、寺領の寄進も全国に及び、最盛期には寺領15万石を領していたといいます。戦国時代に入り、足利を領していた長尾但馬守顯長は、北條氏の配下となっていたことから、豊臣秀吉により寺領は全て没収され、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)、改めて境内地の他、寺領六十石の御朱印状を受領しました。当寺境内は、平安時代の武家屋敷の遺構をそのまま遺している他、建造物・古書も焼失せず残っていることから、明治41年には大御堂及び鐘樓が特別保護建造物となった他、大正11年には境内地・土塁・濠一式が史蹟に指定されています。関東八十八ヶ所霊場16番、下野三十三観音霊場28番です。

鑁阿寺
鑁阿寺の概要
山号 金剛山
院号 -
寺号 鑁阿寺
本尊 大日如来・薬師如来・千手観音
住所 足利市家富町2220
宗派 真言宗大日派
葬儀・墓地 -
備考 -



鑁阿寺の縁起

鑁阿寺は、源(足利)義国の孫足利上総介義兼が、源氏の守り本尊大日如来を本尊として文治5年(1849)居館の境内に持佛堂を建立して創建、保元・平治の乱など源平の騒乱に無常を感じて出家し、法号を「鑁阿」としたといいます。義兼の子左馬頭義氏は大御堂を修築した他、十二支院を建立、その後足利市累代の寄進により七堂伽藍を備えた大寺院となり、足利氏が室町幕府を開いた将軍家となると、寺領の寄進も全国に及び、最盛期には寺領15万石を領していたといいます。戦国時代に入り、足利を領していた長尾但馬守顯長は、北條氏の配下となっていたことから、豊臣秀吉により寺領は全て没収され、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)、改めて境内地の他、寺領六十石の御朱印状を受領しました。当寺境内は、平安時代の武家屋敷の遺構をそのまま遺している他、建造物・古書も焼失せず残っていることから、明治41年には大御堂及び鐘樓が特別保護建造物となった他、大正11年には境内地・土塁・濠一式が史蹟に指定されています。

「足利市史」による鑁阿寺の縁起

鑁阿寺(眞言宗)足利上総介義兼開基
一位置
金剛山鑁阿寺は、足利市家富町に在り。眞言宗豊山派に屬する特殊の本山にして、一山地なり。本尊は、大日如来・薬師如来・千手観音の三尊なり。檀家なし。
二沿革
第一創建年代より、室町幕府時代に至る。
一鑁阿寺起源
足利陸奥判官義康の子、上総介義兼、北條時政の女時子(頼朝の室政子の妹)を娶り、左馬頭義氏を生む。源賴朝、兵を伊豆に起すや、義兼之を援く。文治五年(紀元一八四九年)義兼、其の居館の境内に、持佛堂一宇(後の大御堂)を建立す。是れ蓋し義兼幼少の頃、父義康と共に、鳥羽法皇の御信任を得て、鳥羽離宮に出入せしより、法皇の持佛堂安楽壽院に倣ひて、草創せるものなるべし。義兼、保元・平治に次いで、源平二氏の騒亂に際し、多くの人命を殞せるを慨き、茲に世の無常を觀じ、薙髪して佛門に入、「鑁阿」と號す。ついで建久七年(紀元一八五六年)、其の室を失ふや、義兼道心いよいよ堅固なり。堀内持悌堂は、義兼即ち「鑁阿」の草創にかかれるを以て、鑁阿寺の稱起り、遂に足利氏の氏寺たるに至れり。
かくて鑁阿寺の稱は、偏に高野山に擬じ、棒崎の下御堂を法界寺と稱して、之を奥の院となし、鑁阿寺には源家相傳の守本尊大日如来を安置す。
【鑁阿寺古縁起】
凡本願上人(義兼)之素意、偏擬高野山。以當寺、爲壇上、樺崎准奥院。兩寺通路之間、起三十七本之卒都婆、表金剛界果地三昧。
【彦部家文書】
寺家之内、院内東西ニ五百七間、南北エ四百七十五間、此内殺生禁斷也。足利上総介殿時、御定。
二開基及び開山
當寺の開基は、義兼にして、開山第一世を義兼の護持僧理眞上人となす。上人は伊豆國走湯山般若寺の僧にして、名は朗安、當世知名の碩徳なりき。
三義氏の大御堂修築及び十二支院建立
義兼の子左馬頭義氏、天福二年(紀元一八九四年)、大に大御堂を修築して、堂塔伽藍の莊厳を致し、更に仁治二年(紀元一九〇一年)には、父の素志をついで、南大門に坊監を置き、家臣をして之を守護せしめ、東に六字院・不動院・普賢院・東光院、西に金剛乗院・千手院・龍福院・安養院、北に浄土院・寶珠院・威徳院・延命院の十二支院を建立し、之を一山地として、寺務一人、僧正に任じ、千手院を以て、學頭職となす。
四供料及び修繕料
義氏既に十二支院を建立し、年番行事を定め、寺法嚴肅、偏に金輪聖皇、寶祚長遠、国家安寧、萬民豊楽、歴代英霊、増進菩提等の祈願囘向のため、金胎兩部の秘法、及び舞楽、曼供を修行せしめ、佛供料及び修繕料として、下野に於て、月谷・田島・樺崎・飯塚・木戸・高橋・小曾根の七邑を寄附せられ、大に寺運の隆昌に務めたり。
五歴代の制規・修理及び寄進
足利氏の歴代が、鑁阿寺に對し、如何に崇敬の誠意を捧げしか、以下歴記するところの掟書・制札の設定、或は堂宇の修理、或は寺領其の他の寄進等に就いて、想像する事を得ぺし。
左に掲ぐるは、鑁阿寺殿(義兼)及び鑁阿寺殿(義兼)の忌日・法曾に關し、足利庄公文所に下したる掟書と、寺中制札とにして、共に義氏の眞跡にかゝれり。
(鑁阿寺文書省略)
義氏の次子、宮内少輔泰氏、家督を相續す。「平石殿」或は「智先寺殿」と稱す。歸佛の念深く、本寺の震に、力を盡し、且つ夙に意を一門及び衆徒の學事奨励に致せり。
泰氏、建長三年(紀元一九一一年)剃髪して、「證阿」と號す。左の文書あり。
(鑁阿寺文書省略)
泰氏の第三子を、治部大輔賴氏といふ。賴氏、弘長三年(紀元一九二三年)四月、剃髪入道して「義任」と稱す。賴氏また一山の堂宇に、大修理を加へらる。
賴氏の子を、式部大輔家時となす。家時また父祖の心法を繼承して、護法の念厚く、文永年中(紀元一九二四-三四年)數條の掟目を定めて、當寺の隆昌を計らる。掟書左の如し。
(鑁阿寺文書省略)
家時の子、讃岐守貞氏、また父祖に次いで崇佛の念厚く、本寺諸堂に修理を加へたるのみならず、正和三年(紀元一九七四年)には、當寺を勅願所に奏請し、天長地久、寶祚長遠、不斷の行法を修す。
貞氏の奏請は空しからずして、花園天皇より、御物の御下賜ありし外、佛供料として、上林舘林郷を施入したまへり。爾来、畏くも歴代天皇の御崇敬厚く、後醍醐天皇の元弘三年(紀元一九九三年)には、綸旨を賜はり、國家安穏のため、尊勝陀羅萬燈會を修行せしめられ、正平五年(觀應元年・紀元二〇一〇年)には、崇光院より、天下泰平の勅願所として、黄金を賜はり、日野資世(權大納言)之を奉はり、正平八年(文和二年・紀元二〇一三年)九月廿八日には、後光嚴院より、「興國」二字の勅額御下賜あり。次いで天授二年(永和二年・紀元二〇三六年)四月には、後圓融院より、勅願所としての御恤物を拝受せり。
貞氏の子は、即ち尊氏なり、尊氏、下野中山郷(那須郡)を寄進せられ、開基鑁阿寺殿(義兼)の遠忌には、太刀一振、駿馬一頭、青磁花瓶一對等の寄進あり。
(鑁阿寺文書省略)
尊氏の弟直義は、太刀一振を賽し、且つ佛供料として長州下ノ關を寄す。是れより先、尊氏の嫡子千壽王丸(義詮)は、元弘三年(正慶二年)五月に、金銅の寶樓閣一臺を寄進し、尊勝陀羅尼萬燈會を修行せしめたり。義詮の子将軍義満は、正平廿四年(應安二年紀元二〇二九年)正月、當國喜連川(鹽谷郡)を寄附せり。
次に關東管領家に於ては、基氏、管領就職の時、足利庄を以て、鎌倉府の直領となし、代官を置いて、之を管理せしめ、正平六年(觀應二年・紀元二〇一一年)九月には、當國借宿郷を寄進ありて、堂宇修補の料に供せしめ、基氏の子氏満は、元中三年(至徳三年・紀元二〇四六年)武州戸守郷を寄進し、其の子満兼は、應永十四年(紀元二〇六七年)諸堂を修理し、其の子持氏は、正長元年(紀元二〇八八年)十月、當國名草郡を寄せ、同年四月、一切經會料として、上州橋本郷を寄せ、古河公方成氏は、當國八椚郷を寄進せり。其の他、上杉憲實の代官大石重仲(駿河守)は、康正元年(享徳四年・紀元二一一五年)九月、憲實の命に依りて當國勸農郡を寄進せり。
かくて足利氏の一門其の他の寺領寄進を積算する時は、寺領實に拾五萬石餘に達すべしといふ。尚寺領に就いては、後に記述するところあるべし。
かくの如く當寺は、由緒正しき足利氏の氏寺、否東國屈指の巨刹として、畏くも勅願所たる名譽を忝うし、将軍・管領を始め、數多の人々より、周到なる保護と、深厚なる崇敬・信仰とを寄せられたり。去れば、其の境内の如きも、清浄結界の靈地として、歴代雑人の横行、牛馬の放入を嚴禁し、其の威令よく行はれて、現時に至り、開基當初の状態を變ずることなかりしなり。
第二室町以後より、江戸幕府時代に至る
されど有爲轉變は、世の習。織田氏を經て、豊臣氏に至り、天正十八年(紀元二二五〇年)七月、秀吉、足利の領主長尾顯長(但馬守)が、北條氏に屬して、小田原に入城せるを怒り、其の城地を沒収せると同時に、當寺領をも減沒せり。
然るに、翌天正十九年十一月、徳川家康、江戸に入城するに當り、當寺領六十石及び一山の境内一萬餘坪、安堵の朱印を下附し、三百餘戸の民家を知行するを得て、一山蘇生の思をなせり。
(鑁阿寺文書省略)
其の後、東山天皇の元禄五年(紀元二三五三年)、五代将軍綱吉の生母桂昌院、諸堂を修補し幔幕二張、打補二枚、黄金二百兩の寄進あり。越えて櫻町天皇の漢方薬二年(紀元二四〇二年)、八代将軍吉宗の時、學頭職義貞、幕府より白書院獨禮の榮を得たり。『記録』に、寛保二壬戌年五月、當寺學頭職千手院を以て、丸山昌貞法眼の執達及び高家宮原・畠山・喜連川等の副伸に依り、朱印の寫・古書・舊記を添へて上せしに、寺社奉行本多紀伊守の時、許されて極月歸山し、翌三年正月献上物を携へて登城し、白書院に於て、特格を以て、獨禮の式を終り、時服拝領あり。遂に恒例となれり。
かくて江戸幕府治世二百六十年の間に於て、一山・十二坊は、上杉・細川・宮原・畠山・喜連川、その他源家に縁由ある諸家及び舊臣等の祈願奉賽によりて、辛くも其の維持を完うし、諸堂宇の大破修繕には、特に寺社奉行の裁許を得て、御免勸化を稱し、江戸及び近國・舊領等の縁故を尋ねて、其の特志寄附を仰げり。
第三明治以後
江戸幕府倒れて、大政一新し、明治四年(紀元二五三二年)九月、寺領及び舊地等の上地仰出され、太政官より、金六百圓下賜せられ、同十七年五月には、太政大臣三條實美の参拝ありて、保護金を下附せられ、同二十一年五月には、内務省より保護金二百圓の下賜あり。同四十一年八月には、内務省告示第七十六號を以て、大御堂及び鐘樓を、「特別保護建造物」に編入せる旨告示ありき。
其の後、明治四十三年九月には、畏くも、皇太子殿下(大正天皇、皇太子の御時)臺臨、寺寶を電覧あらせられ、越えて大正十一年三月には、現境内一萬五千坪圍堀及び土壘一切を、足利氏の祖先の宅址として、史蹟に編入せらる。
鑁阿上人逝きて、今に七百餘年、其の堂塔・伽藍・依然として舊觀を失はず、其の濠隍・土壘尚克く往時の面影を傳ふ。斯くまでに、鎌倉時代に於ける武人の居館、城地の状態を完全に保存し来れるは、寧ろ之を天祐と謂ひ、奇蹟と稱すべきなり。(「足利市史」より)


鑁阿寺所蔵の文化財

  • 鑁阿寺本堂(大御堂)(国宝)
  • 中御堂(不動堂)
  • 楼門及び反橋(栃木県史指定文化財)
  • 多宝塔(栃木県史指定文化財)
  • 経堂(国指定重要文化財)
  • 校倉(市指定重要文化財)
  • 大酉堂
  • 御霊屋(栃木県指定文化財)
  • 蛭子堂(足利市重要文化財)
  • 東門・西門(栃木県指定文化財)

鑁阿寺本堂(大御堂)

鎌倉時代初期、建久七年(一一九六)に足利義兼建立。正安元年(一二九九)再建。本尊は源氏相伝の守本尊、大日如来。建築は構造雄大、手法剛健、本瓦葺唐様と和様を加味した折衷の代表的な建物で堂内の柱、天井、厨子等の価値は高い。明治四十一年国宝に指定され、昭和八年より二年間、解体修理を文部省の指導の下実施した。戦後法令改正により重要文化財となる。平成二十五年八月、国宝に指定される。境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、多宝塔、御霊殿等の七堂伽藍を備えた東国の密教の代表的な寺である。創建以来、幸い火災にあわず多数の重要文化財を蔵している。
開基、義兼七世の孫は足利尊氏にして、京都室町に幕府を構え、幕府は十五代二百三十年つづいた。大祭は五月三、四、五日、十一月三、四日、初詣、節分鎧年越し等、厄除・開運の祈願寺として参拝者が多い。
真言宗大本山金剛山鑁阿寺(境内掲示より)

中御堂(不動堂)

寺伝では開基足利義兼公の創建とあるが、文禄元年(一五九二年)生実御所国朝の再修になる。
御本尊不動明王は往古千葉県成田山より勧請せるもので興教大師の作といわれ霊験あらたかな不動明王である。
本堂が明治四十一年国宝に指定される迄は不動堂と廊下でつながっていて四度加行の護摩法の道場として使用した堂宇である。
昭和四十四年信徒の浄財により半解体修理を実施した。
商売繁昌を祈念する堂であると同時に酉年守本尊なり。
堂の右側に古井戸の跡あり八百年前足利氏が居住した時に使用したといわれる。(境内掲示より)

楼門及び反橋

楼門は当山では仁王門又は山門ともいう。開基足利義兼公が建久七年(一一九六年)創建せるも室町時代火災にあい永禄七年(一五六四年)足利幕府十三代将軍足利義輝の再建である。構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺き。両側の仁王尊像は此の建物より古く鎌倉時代運慶の作といわれている。
反橋は俗に太鼓橋といい江戸時代安政年間の再修である。
当山境内は面積一万二千三百坪(四〇四六七平方メートル)四周に濠と土塁をめぐらし四門あり、
当山開基足利義兼公の祖父源義国(八幡太郎義家の子、足利・新田両家の祖)が別業として平安時代末に構築せるものにして上古の豪族の居館を原形のまま今日に残したもの。実に近世城郭の原始を示しており、足利氏宅趾として大正十一年国が史蹟に指定した。
楼門及び反橋は栃木県指定文化財である。(境内掲示より)

多宝塔

開基足利義兼公創建と伝えられているが現在のは、元禄五年徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院尼公の再建と伝えられていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永六年銘(一六二九年)銘のものが発見され、塔の再建年代がさかのぼる事が判明した。
徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、此の宝塔を祖先の菩提供養のため再建寄進した。
本尊は金剛界大日如来、本尊前に勢至菩薩(俗に二十三夜尊)両側に十六羅漢像を祀る
奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍のお位牌を祀る
多宝塔としては我国で一番大きい。(これ以上大きいのは大塔という)
平成七・八年解体修理を実施した。(境内掲示より)

経堂

鑁当山開基、足利義兼が妻の供養の為一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建したといわれるが、現在の建物は応永十四年(一四〇七年)関東管領足利満兼により再建された。
足利家は鎌倉・室町の両時代に盛んに一切経会を営んだ事が当山古文書(国重文)にみられる。
堂内に八角の輪蔵(経棚)があり一切経二千余巻を蔵するが、此経棚は江戸時代宝永年間の大修繕のものなり。
昭和十一・二年文部省技師阪谷良之進の指導の下、解体修理を実施した。
昭和五十九年国重要文化財に指定さる。
平成十六・七年屋根を主に文化庁指導の下、大修繕を実施。(境内掲示より)

校倉

宝庫、大黒堂とも称する。永享四年公文所奉行の再建といわれているが現存の棟札では当山卅二世満慶上人が宝暦二年の再修となる。
建築様式に校倉風で元来当山の宝物を収蔵した。
四十二世忍空上人の時、宝物は他へ移して足利家伝来の大黒天を祀った。
昭和五十五年市の助成を得て元文部技官安田昭二に依り半解体修理を実施した。(境内掲示より)

大酉堂

此のお堂は元来、足利尊氏公を祀るお堂として、室町時代に建立された。
当山に残る寛政二年及び明治五年の伽藍配置図には、足利尊氏公霊屋と現在地に記載されている。
明治中期より、足利尊氏逆賊の皇国史観胎頭し、四十一世忍禅上人は甲冑姿の足利尊氏公木像を本坊に移し、当山伝来の大酉大権現を本尊とした。
大正六年四十二世忍空上人は、信徒の浄財を仰いで堂宇の大修繕を実施す。
大酉大権現は俗におとり様といい、古来武神として、武門の信仰篤く、殊に東国では、近世より商売繁昌、福の神として信仰されている。
昭和六十一年解体修理を実施した。(境内掲示より)

御霊屋

足利大権現と称し、俗に赤御堂とも云う。正和年間(一三一二年)の当山伽藍配置図にも境内西北に描かれている。
創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川十一代将軍家斉の寄進によって再建された。本殿に源氏の祖を祭、拝殿に県指定文化財足利十五代将軍像を祀る。正和三十二年境内整備のため以前の位置より北へ十二間後退させた。本殿の裏に当山開基足利義兼の父義康、祖父義国の墓あり。正和五十七、八年度栃木県及び足利市の助成を得て(株)安田工務店に依頼して半解体修理を実施した。(境内掲示より)

蛭子堂

時姫堂とも称し、当山開基足利義兼の妻、北條時子(源賴朝の妻北條政子の妹)を祀り、時子の法名から智願寺殿ともいう。創建年代は不詳
時子姫は寺伝では自害したといわれ、これにまつわる逆さ藤天神、足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は足利七不思議の伝説の中白眉の物語りとして残っている。
妊娠の女人、此の堂にお詣りすれば栗のいがより栗が軽くもげるが如く安らかに安産のききめありといわれ、昔から信仰されている。
本尊は栗のいがを手に持つ蛭子女尊。
平成五年、栃木県と足利市より補助を受けてお堂の解体修理を実施した。(境内掲示より)

西門

向う側の東門と共に栃木県指定の文化財である。
本瓦葺、切妻造り、四脚門、開基足利義兼の創建といわれるが永享四年(一四三二年)公文所奉行の再修になる。
形状簡古、手法稚朴、正に鎌倉期の武家造りの剛健な風格がしのばれる。
昭和三十二年、国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。(境内掲示より)

鑁阿寺の周辺図


参考資料

  • 「足利市史」