一関八幡神社。坂上田村麻呂創建の伝承、旧郷社
一関八幡神社の概要
一関八幡神社は、一関市釣山にある神社です。一関八幡神社は、坂上田村麻呂が悪露王討伐に際して釣山公園頂上に陣営を置き、諏訪大神を勧請したと伝えられ、前九年の役に際して源頼義・義家も釣山公園に康平4年(1061)石清水八幡宮を勧請したといいます。一関藩主伊達兵部宗勝が寛文2年(1662)当地へ遷座、一関初代田村藩主田村建願は、田村社の御分霊を元禄7年(1694)に勧請しています。明治4年郷社に列格、明治8年村社とされたものの、昭和5年再び郷社に列格しています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | 坂上田村麻呂、坂上輝定 |
境内社 | 竹駒神社、天満宮 |
祭日 | 9月15日 |
住所 | 一関市釣山釣山19 |
備考 | - |
一関八幡神社の由緒
一関八幡神社は、坂上田村麻呂が悪露王討伐に際して釣山公園頂上に陣営を置き、諏訪大神を勧請したと伝えられ、前九年の役に際して源頼義・義家も釣山公園に康平4年(1061)石清水八幡宮を勧請したといいます。一関藩主伊達兵部宗勝が寛文2年(1662)当地へ遷座、一関初代田村藩主田村建願は、田村社の御分霊を元禄7年(1694)に勧請しています。明治4年郷社に列格、明治8年村社とされたものの、昭和5年再び郷社に列格しています。
「岩手県神社名鑑」による一関八幡神社の由緒
康平四年(一〇六一)源頼義が安倍貞任征伐のため篠見山に出陣、合戦の勝利を祈祷し八幡宮を八方に勧請す。
寛文二年(一六六二)伊達兵部宗勝が現在地に遷座す。(「岩手県神社名鑑」より)
「岩手県町村誌」による一関八幡神社の由緒
(一關町)八幡神社(村社)
字釣山にあり、社地四反六畝〇〇歩、祭神譽田命並に坂上田村麿を祭る、康平四年源賴義勧請、祭日八月十五日。(「岩手県町村誌」より)
境内掲示による一関八幡神社の由緒
当神社は、平安時代前期、桓武天皇の御代延暦年間(七八二~八〇六)坂上田村麻呂が東夷平定のため悪露王討伐の際、館山(現釣山公園の頂上千畳敷)に陣営を敷き 諏訪の大神(長野諏訪大社)に勝利を祈願し諏訪大神をお祀りしたのが紀元とされ、その後、平安時代後期後冷泉天皇の御代、康平四年(一〇六一)源頼義・源義家が安倍貞任征伐【前九年の役】の折田村麻呂と同じく館山に陣を敷いた際、合戦の祈願のため、伊勢の神宮・京都の石清水八幡宮・両宮へ中原大夫清房を奉幣使として使わしたところ、両宮の大御神の御神託を賜り、この地域の八方に八幡宮を勧請した内のその第一社である。
桃山時代、後陽成天皇の御代、文禄二年(一五九三)諏訪神社を再奉し江戸時代、後西天皇の御代、寛文二年(一六六二)一関藩主 伊達兵部宗勝により現在の地へ遷座され、以来此の地に鎮座している。江戸時代、東山天皇の御代、元禄二年(一六八九)一関初代田村藩主田村建願は境内地に射的場を設け、自ら奉納射的を行い、自作の鏑矢を奉納し、同元禄七年(一六九四)には、この一関の地に坂上田村麻呂を慕う人々が多いことから、伊勢へ伊藤惣助を代拝参宮へ使わした折、土山(滋賀県甲賀市)に鎮座する田村社の御分霊を田村神社として当社の相殿へ併せ祀り勧請する。以来藩主田村氏の崇敬神社、また旧一関町(現市街地)の総鎮守としてお祀りされている。また現在千畳敷(釣山公園)へ鎮座している田村神社は、大正時代に田村家江戸屋敷邸内へ祀られていた御社を遷座したものである。
明治四年郷社、明治八年村社、昭和五年再び郷社に列する。明治九年五月、地主町鎮座神明社が焼失のため同社へ合祀す。昭和四六年十二月、社殿が全焼し、貴重な文化財(田村建顕公射的奉納鏑矢・算額等)を焼失してしまったが、当時オイルショックの不況下の中氏子崇敬者の篤い奉賛により、昭和四八年、現在の御社殿が再建された。(境内掲示より)
一関八幡神社所蔵の文化財
- 手洗水鉢
手洗水鉢
元禄十年(一六九七)一関藩主田村建顕公が幕府より作州津山城受け取りの上使を命ぜられ、その大任を果し、家中一同祈願成就を祝い、翌十一年(一六九八)八幡神社社殿前に奉納した、由緒あるものである。(一関市掲示より)
一関八幡神社の周辺図
参考資料
- 「岩手県神社名鑑」