明泉寺。広島県広島市南区にある真宗大谷派寺院

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明泉寺。広島県広島市南区にある真宗大谷派寺院

明泉寺の概要

真宗大谷派寺院の明泉寺は、菩提山と号します。明泉寺は、僧浄念が、紀州から広島に移封した浅野家を慕って来住、広島から萩へ移った廣島光明坊の跡地に元和7年(1621)に開基したといいます。慶安4年(1651)火災により全焼、跡地を徳榮寺が相続したことから、徳榮寺寺中寺となったものの、明治11年一寺として再興し菩提山明泉寺と公称、明治14年当地へ移転しています。当寺の山門は、昭和20年の原爆投下で破壊を免れた被爆建物です。

明泉寺
明泉寺の概要
山号 菩提山
院号 -
寺号 明泉寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 広島市南区段原2−2
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



明泉寺の縁起

明泉寺は、僧浄念が、紀州から広島に移封した浅野家を慕って来住、広島から萩へ移った廣島光明坊の跡地に元和7年(1621)に開基したといいます。慶安4年(1651)火災により全焼、跡地を徳榮寺が相続したことから、徳榮寺寺中寺となったものの、明治11年一寺として再興し菩提山明泉寺と公称、明治14年当地へ移転しています。

「廣島縣史」による明泉寺の縁起

明泉寺
元和七年開基浄念、紀州明泉寺を茲に移轉す、慶安四年十二月十日焼失、再建困難なるにより、隣町山口町掛持屋敷へ少宇を構へて住す、寛文調査の時、帳落となり、寺號を許可されさるより、徳永寺内に移る、明治十一年十一月寺號公稱許可、同十二年下柳町に移轉、同十四年四月今の地に移轉許可(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による明泉寺の縁起

明泉寺
明泉寺は菩提山と號す、段原町に在り、本尊は阿彌陀如来なり、初め當寺の元祖浄念紀州に在りけるが、淺野氏を慕て當寺に来り、高田郡吉田町にある徳榮寺に依頼し、廣島光明坊の住職祐信が毛利氏に随ひ萩に移りし跡に住し、寺名を明泉寺と改め、吉田徳榮寺の末寺と爲る、然るに慶安四年十二月十日の夜、本堂、庫裡悉く類焼し、寶物・舊記をも失ひ、僅に本尊祖師の眞影のみ災を免れり、二代善庭の時、吉田なる徳榮寺の六代淳信(廣島徳榮寺にては五代)廣島に来り、明泉寺に入りて光明坊を中興し、徳榮寺改め、光明坊の舊地を相續せしかば、善庭は今の徳榮寺内の町地に退き、別に本尊を安置し、從来の門徒を守護しけれども、當時新地に寺院を建立すること制禁なりしかば、徳榮寺の外に「明泉寺」の稱號を許されず、因りて徳榮寺の持僧となる、六代春月の時、明泉寺再興を徳榮寺より本山西本願寺に請ひしも、後世本末の争ひ起らんことを慮り、別に「正信寺」の名を附して許可せり、因て明泉寺の本尊は徳榮寺に安置し、正信寺は新たに本尊を安置し、徳榮寺の末寺と爲る、寛永三年本坊徳榮寺と共に東派に轉じ、明治十一年十代誓賢の時、明泉寺の稱號通貫を地方廳に請願し、十一月二十一日許可を得て、始めて獨立し、菩提山明泉寺と公稱す、明治十二年四月徳榮寺境内より下柳町に移り、同十四年四月境内狭隘なるを以て、現今の土地・建物を購入して移轉せり、明治二十九年十一代道詮の時、釣鐘(無銘)を新鑄し、明治四十三年五月本堂(間口六間奥行八間)を再建し、大正二年五月落成せり、(「廣島市史社寺史」より)


明泉寺所蔵の文化財

  • 明泉寺の山門(被爆建物)

明泉寺の山門

この山門は、再開発により当時の場所から約15m南に移動していますが、昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。(境内掲示より)

明泉寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」
  • 「廣島市史社寺史」