広島護国神社。広島県広島市中区の神社

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広島護国神社。広島県広島市中区の神社

広島護国神社の概要

広島護国神社は、広島県広島市中区にある神社です。広島護国神社は、明治新政府の命により、広島藩主が、戊辰戦争の戦没者78柱を祀り、水草霊社として明治初年に創建、明治8年官祭招魂社に列格、明治34年広島招魂社と改称、昭和14年広島護国神社と改称したといいます。昭和20年原爆により焼失、昭和30年当地に再建され、昭和46年には昭和天皇・皇后が御親拝しています。

広島護国神社
広島護国神社の概要
社号 広島護国神社
祭神 戊辰の役より大東亜戦争に至る戦歿者及び原爆死歿者
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 広島市中区基町21−21−2
備考 -



広島護国神社の由緒

広島護国神社は、明治新政府の命により、広島藩主が、戊辰戦争の戦没者78柱を祀り、水草霊社として明治初年に創建、明治8年官祭招魂社に列格、明治34年広島招魂社と改称、昭和14年広島護国神社と改称したといいます。昭和20年原爆により焼失、昭和30年当地に再建され、昭和46年には昭和天皇・皇后が御親拝しています。

境内石碑による広島護国神社の由緒

当社は明治元年、藩主朝命を奉し戊辰の役の陣歿物七十八柱の御霊を二葉の里に奉祀した水草霊社に起源する。
明治八年官祭招魂社に列せられ、同三十四年 広島招魂社と改称される。昭和九年秋 当時の西練兵場の西端に社地を遷し新社殿が造営された。
昭和十四年 広島護国神社と改称されたが、同二十年八月六日原子爆弾の災禍により社殿悉く灰燼に帰した。
その後、同所に小祠を建てて祭祀が続けられたが、神社復興の気運が高まり、復興奉賛会が結成され多くの県民の浄財により昭和三十一年十一月、現在の広島城跡に荘厳なる社殿が造営された。
昭和四十六年 昭和天皇、香淳皇后御親拝の栄に浴するやその御聖徳により社頭は隆盛を極めた。平成五年四月 御大典記念事業として本殿幣殿拝殿の御社殿が竣功した。
御祭神は、戊辰の役より大東亜戦争に至る戦歿者及び原爆死歿者を祀る。
別表神社広島護国神社(境内石碑より)

「廣島市史社寺史」による広島護国神社の由緒

官祭廣島招魂社
官祭廣島招魂社は大須賀町二葉の里に在り、境内四百三坪六合二勺、(官有地第一種、外に堤脚地百六拾坪三合二勺を使用す〇もと當社境内地は僅かに六十一坪なりしが、明治三十六年八月六日饒津公園地より三百四十二坪六合二勺を分割編入せられ、現在の如くになれり、)もと水草靈社と號し、明治元年十二月二十三日の創建にして、戊辰戰役に戰死し廣島藩士卒七十八名の忠魂を合祀せる靈社なり、其戰死者の芳名を擧ぐれば左の如し、
(戦死者一覧省略)
明治七年、同十年の暴風に依り、本殿・拝殿ともに大破せしかば、明治十年九月舊廣島藩士(姓名省略)十一名、發起人と爲り、有志者と謀りて、社殿を再建せり、現在の社殿等は左の如し、
正殿壹間に五尺
幣殿壹間三尺・壹間三尺
拝殿四間・二間
廊下三尺に一間五尺
社務所二間三尺・三間三尺
木の鳥居
石の手水鉢一基
石燈籠
祭日は、もと毎歳九月十五日なりしが、明治十年以来毎歳十一月六日に改めたり、
境内西側に「明治三十三年北清事變忠死者記念之碑」あり、明治三十四年七月十三日の建設にして、第五師團歩兵第十一聯隊戰死者の姓名を碑面に鐫せり、(「廣島市史社寺史」より)


広島護国神社の周辺図


参考資料

  • 「廣島市史社寺史」