胡子神社。広島県広島市中区の神社

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胡子神社。広島県広島市中区の神社

胡子神社の概要

胡子神社は、広島県広島市中区にある神社です。胡子神社の創建年代などは不詳ながら、高田郡吉田に鎮座していた当社を、慶長8年(1603)に「市の町」と称していた当地に遷座したといいます。伝承によれば、当地の町年寄錢屋又兵衛(のち坪屋と改称)が、広島城主福島正則の寵愛を受けていた(高田郡吉田出身の)歌舞妓清七から、胡子神のご利益を聞きつけ、福島正則に請うて当地に移したともいいます。明治4年鶴羽根神社の摂社となったものの、町内会で祭祀を管理していたといいます。

胡子神社
胡子神社の概要
社号 胡子神社
祭神 事代主命、胡子命、大江広元
相殿 -
境内社 -
祭日 大祭11月17日から20日まで
住所 広島市中区胡町5−14
備考 -



胡子神社の由緒

胡子神社の創建年代などは不詳ながら、高田郡吉田に鎮座していた当社を、慶長8年(1603)に「市の町」と称していた当地に遷座したといいます。伝承によれば、当地の町年寄錢屋又兵衛(のち坪屋と改称)が、広島城主福島正則の寵愛を受けていた(高田郡吉田出身の)歌舞妓清七から、胡子神のご利益を聞きつけ、福島正則に請うて当地に移したともいいます。明治4年鶴羽根神社の摂社となったものの、町内会で祭祀を管理していたといいます。

「廣島市史社寺史」による胡子神社の由緒

胡町恵美須神社
恵美須神社は胡町(第十一番地)に在り、八重事代主神を祀る、境内は、もと三十二坪二合九勺なりしが、明治四十二年六月同町の豪賈尼子忠蔵より附近の地積四十二坪六合二勺を寄附したれば、今は七十四坪九合一勺(官有地第一種)となれり、抑々當社は往昔高田郡吉田にありしが、其以前の縁由は詳ならず、慶長年間福島左衛門大夫正則在城の時、當町は「市の町」と稱し、町年寄錢屋又兵衛(智錢屋を坪屋と改む)と云ふもの、福島氏に請ひて此處に移し来れりと云ふ、又一説に云く、當社は初め吉田より今の安佐郡古市に移し、次で廣島城下西引御堂町に移し、又それより當所(市の町)に移し来りて、町名を胡町と改めしなりと云ふ、然れども寛政の頃、香川南濱が著せる秋長夜話に曰「毛利家吉田に在城の時、其祖先大膳大夫廣元朝臣の祠に祭られし木像を、廣島移城の時、いかなる故にや、其儘差置れけり、土民は故をしらざれば、蛭兒像とおもへり、其後福島左衛門大夫正則、廣島在城の時、歌舞妓清七と云ふもの、正則に寵せられしが、其頃錢屋何某とかや云ける者、清七とねんごりなりける、清七は元来吉田の産なれば、或時錢屋何某に、彼蛭兒の像威靈かくれなき由を語りける、錢屋何某、いかにも其像を得まく思ふなり、さもあらば所の賑ひにもなる可しと申ければ、清七いと安きほどの事なりとて、其由を正則に申上けるに、即ち吉田の村の長に命じて贈りあたへしむ、錢屋何某よろこびに堪へず、即ち小祠を建て安置す、今胡町に祭るところの像是なり、其像方面無鬚にして、烏帽子・狩衣を着し、又手して立り云々」と云へり、尚ほ當社の由来は「知新集」に詳記しあれば、之を左に抄録せむ、
抑々當寺(眞言宗明星院末寺市中山西光寺)は、往古高田郡吉田に在りしを、毛利殿の時、高宮郡古市へ引かれ、又當地西引御堂町へ移されしを、福島殿の時、慶長八年今の地へ替りぬ、吉田に在ける時の開基縁由などは詳ならず、此地建立より二百六年の星霜を經たり、また此胡町は、毛利殿の時は熊谷屋敷(熊谷何某、来審)東引御堂町牢は寺屋敷、半は侍屋敷なりけると、慶長五年福島殿入國あり、同八年星野越後守・小河若狭守兩人命を受て、初めて町屋敷となしける由舊記に見え、當寺なる胡社も、もと吉田に在しを、今の立町坪屋彦三郎が先祖錢屋又兵衛といふ者、此町の年寄役なりしが、福島殿に願ひ、かの胡を此地に乞請、自力に一社を造立して祭り、又小堂を草創して、胡本地觀音を安置しけるより、胡町と呼び、此町と東引御堂町とに、月四日づゝ、合せて八日の市を立て、物の賣賈をせし故、市の町とも呼びけるが、今も胡町とも、市の町とも云ならはしたり、抑々そのかみ歌舞妓清七と云ふ者、此町にて歌舞伎をして諸人に見せ、殊の外賑はひける由、其歌舞伎の場所は、今の小川恭意宅のあたりと考られ、彼の慶長八年初めて此胡を祭りける時の幣とりは、白神のみこいせなりと同町記録に見え、當寺往古は僧侶もなく、此胡社の番人には山伏或は町の肝煎などを居置しを、寛文五年正月初て光明院弟子善性と云を、番僧に極めし由、同じ記録に見えたり。
胡堂西光寺預申一札之事
一胡堂西光寺、町中拙僧に御預被成、然る上は存命の内無怠可致守護事、
一萬事町儀の指圖を請、相勤可申事、
右後々爲無違背、依如件
寛文五年乙巳正月廿二日
胡堂西光寺當住 善性
年寄伊兵衛殿
此善性、當寺の開山とも云ふべく、其時より今に至るまで、當寺住持のかはる毎に、かたの如き一札を町儀へ取置、當寺之事、何によらず町儀よりおきてする例にて、胡社・西光寺とも全く寺法の所有にはあらで、町儀持の寺社なり、さるは往昔かの錢屋又兵衛の功によりて、胡社を勸請せし證跡なるべし、なほ同町舊記、同年七月町役人より町御奉行所へ差出す書付、
市中山西光寺胡堂由来
一輝元様御時代、胡町は熊谷殿屋敷、東引御堂町牢分は寺屋敷、殘りは御侍衆屋敷にて御座候、
一慶長五庚子年、福島左衛門大夫様御入國被成、夫より四年目、星野越後守殿、小河若狭守殿御奉行にて、初而町屋敷に被成候、大年寄松屋休巴被仰付、廣瀬組の内西引御堂町より觀音胡請取、胡町・東引御堂町へ御居させ、兩町鎮守に被成、往古より西光寺屋敷、御免所にて御座候、
一西光寺、先年は高田郡の内吉田より沼田郡の内古市へ引け、古市より廣瀬組の内西引御堂町へ引、是より胡町・東引御堂町へ引申候、以上、
寛文五年巳七月十一日
松屋平助
和久屋猪兵衛
大須屋半兵衛
武井三郎兵衛様
深溝助太夫様
(中畧)かくて享保七年壬寅正月、當寺二世善秀の代、初て年頭御禮に登城する事をゆるされ、正・五・九月御城祈禱の時は明星院律僧としてまかり出る事となりぬ。
寛永十六年閏十一月廿五日社殿の再建成就し、享保二十年十月再び造營す、舊は此社殿、町内民家の軒並に社殿の軒端を並べしが、文政十年當町の年寄煙草屋清左衛門の發起にて、現今の如く社殿を後方に引移し、社前に朱の鳥居を建て、軒並には黒木の柵垣・柵門を構へたりしが、其後嘉永三年正月當町年寄格組頭國吉屋太兵衛の發起にて、今の如く敷石・石階・石橋等を寄附し(尤も町内助力の寄附若干あり)同時に同町年寄役煙草屋清左衛門より白木鳥居一基を寄附し從前の柵垣・朱の鳥居を撤去せり、もと此社後に西光寺(眞言宗)ありて、世々守護を爲せしが、明治維新の後、新佛混淆を廢止せられてより、西光寺は廢寺となり、明治四年五月縣廳より當社の地面町内持の名義を取消され、鶴羽根神社の攝社と爲されしが、尚ほ祭祀供具等のことは、従来の如く町内中の住民引受け世話致すべき旨を指令せられたりと云ふ、(「廣島市史社寺史」より)


胡子神社の周辺図


参考資料

  • 「廣島市史社寺史」