速谷神社。廿日市市上平良の神社

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速谷神社。廿日市市上平良の神社

速谷神社の概要

速谷神社は、広島県廿日市市上平良にある神社です。速谷神社の創建年代等は不詳ながら、安芸国造の(天湯津彦命の五世孫)飽速玉命を祀り、弘仁2年(811)に従四位下を、翌年には従四位上を授与されています。延長五年(927)に編纂された延喜式神名帳にも名神大社として記載され、中国、九州で唯一の延喜式官幣大社だったといいます。その後平家一門の崇敬を集めた厳島神社が隆盛し、当社は衰退、厳島神社の兼務社となり、いつしか速田神社と称されていたものの、浅野藩浅野光晟の代より速谷神を祀る社として認識されるようになり、明治6年速谷神社と改称し、郷社に列格、大正13年に国幣中杜に列格しました。

速谷神社
速谷神社の概要
社号 速谷神社
祭神 速谷神
相殿 -
境内社 岩木神社、稲荷神社
祭日 10月12日
住所 廿日市市上平良字堂垣内308-1
備考 -



速谷神社の由緒

速谷神社の創建年代等は不詳ながら、安芸国造の(天湯津彦命の五世孫)飽速玉命を祀り、社領6万石を有し、弘仁2年(811)に従四位下を、翌年には従四位上を授与されています。延長五年(927)に編纂された延喜式神名帳にも名神大社として記載され、中国、九州で唯一の延喜式官幣大社だったといいます。その後平家一門の崇敬を集めた厳島神社が隆盛し、当社は衰退、厳島神社の兼務社となり、いつしか速田神社と称されていたものの、浅野藩浅野光晟の代より速谷神を祀る社として認識されるようになり、明治6年速谷神社と改称し、郷社に列格、大正13年に国幣中杜に列格しました。

「広島縣神社誌」による速谷神社の由緒

創立年代は不詳なれど、上古より鎮座の古社である。当社伝記に「天孫降臨ノ神卅二神ノ内、天湯津彦命五世ノ孫、飽速玉命、則チ此神ナリ。旧事記ニ曰ク、天湯津彦命ハ安芸国造等ノ祖也。国造本記ニ曰ク、阿岐国造ハ志賀穴穂(成務天皇)朝、天湯津彦命五世ノ孫、飽速玉命定賜国造云々」と記述され、御祭神は人皇十三代成務天皇朝、安芸国造に任ぜられ当国一円を統べ給い、皇化を布き国土開拓の祖神である。当神社が正史上に初見するのは『日本後紀』の弘仁二年(八一一)七月、速谷神と伊都岐島神が名神例に預かったことであり、次いで『三代実録』の貞観元年(八五九)正月、伊都岐島神と速谷神を従四位下に進め、同九年十月に従四位上に進められている。延長五年(九二七)の『延喜式』の神名帳には「佐伯郡二座(並大)、速谷神社(名神大、月次、新嘗)、伊都岐島神社(名神大)」とあり、四時祭の祈年祭に神祇官の祭る「奠幣案上神」三百四座の内に預かり、臨時祭の名神祭神二百八十五座の内に加えられており、中国、九州で唯一の延喜式官幣大社として殊遇を受けた。降って承平五年(九三五)海賊調伏祈禱十三社内の内に加えられ、天慶三年(九四〇)正四位下に昇叙された。その後、伊都岐島神社(厳島神社)が平家一門の信仰を集め隆盛したのに対し衰退の途を辿り、中世には厳島神社の社領が平良荘にも及び、その社領内に鎮座する関係で当神社は厳島兼帯七社の一社となった。文明十一年(一四七九)には厳島神社神主、桜尾城城主藤原教親が梵鐘を奉納するなど桜尾城主藤原氏も代々奉祀して杜領も寄進し、年五度の祭祀は盛大に執行された。天文十年(一五四一)には大内義隆が太刀一腰と神馬一疋を寄進、さらに永禄六年(一五六三)には毛利隆元が立願のため御湯立を七年間斎行しており、信仰崇敬は大なるものがあった。社領については天文十六年(一五四七)の尊海文書(当社蔵)によれば、当社修復のため大願寺尊海が田地一町一反、鐘撞料二反余を充てており、同二十年の毛利家寄進の厳島神社社領中に当神社の修理免として平良庄講丸内に四石、灯明銭として山里郷納銭内に三貫九百五十六文があった。また、御祭事に分米二十七石七斗五升があったことが知られる。降って広島藩主浅野光晃は慶安元年(一六四八)藩費をもって社殿を造営、以来、藩の篤い崇敬を受けている。社名は中世に至って速田大明神と称されるようになったが、明治六年、旧名に復して速谷神社と改称、郷社に列した。同八年には有栖川熾仁親王御染筆の扁額奉納、大正十三年に国幣中杜に列格した。戦後は神社本庁の別表神社となる。昭和六十一年春には不慮の災火により本殿ほか五棟の社殿を灰燼に帰したが、同六十三年には優雅で荘厳なる新社殿が竣工した。(「広島縣神社誌」より)

「廣島縣史」による速谷神社の由緒

明治以前は速田神社と號す、文明十一年鑄造の鐘銘にも速田大明神とあり、社傳には祭神を神烏とす、昔市杵島姫當國鎮座の時神鳥從来り當村に飛来る、時に磐木翁なるもの村の主たり、翁神烏の爲に十歩の地を假し住ましむ、後社を立て其烏を祭るといふ、舊記に依れば、昔は社家大家五軒其他十三軒供僧十二坊、社領六萬石(佐伯郡三萬七千石、高宮郡二萬三千石)の由、明治六年二月郷社となる、按に延喜式に、安藝國大社速谷神社あり、案上官幣の神なり、當時之と同格の神は僅に三百四座、就中山陽道には、播磨國海神社と當社のみ、其神の尊貴なる事知るへし、然るに後世速田神社即速谷神社とし、其祭神を鳥とするは不審なり、正保三年領主浅野光晟、尾張侯義直より速谷神社を訊はれ、家臣立庵法橋をして捜査せしめしに、速田社あるも、速谷社なし、社號に少異あるも、是即速谷社とし、慶安元年初めて官より造營ありしこと、縁起書に詳なり、速谷速玉國訓相近し、思ふに速谷神社は飽速玉命を祭れるものなるへしとは、藝備風土記に於て、始めて勝島惟恭の唱へし説なり、速玉・速谷・速田・國音相似たれは、轉用せしなるへしとは、藝備通志の説なり、尚通志には、先國造を祭て後神鴉を配祭りしも知へからすといへり、此頃より祭神を飽速玉命とするの説、漸く宣傳せられ、明治初年神社明細帳、を造くる時より、全く神鴉の古説を棄てゝ、飽速玉命と定む、楽音寺新明町沼田郡速田明神あり、是後に速玉神社と稱し、祭神を速玉之男神とせるものなりといふ、國音の近きより想像すれは、速田神社の祭神を速玉之男神とするは頗可なるに似たり、且熊野には、昔より烏を以て大神の使なりとし、牛王の如き、皆烏點を用ひ、烏七十五隻ありて、熊野牛王寶印の六字を爲すといふ、速田社の祭神を神烏とするの説、或は此熊野牛王より附會したるものなるやも、知るへからす。(「廣島縣史」より)


速谷神社所蔵の文化財

  • 狛犬(県指定文化財)
  • 尊海文書(市指定文化財)

速谷神社の周辺図


参考資料

  • 「広島縣神社誌」