相馬小高神社。南相馬市小高区小高の神社

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相馬小高神社。小高城内に祀られた相馬氏の氏神、相馬三妙見社

相馬小高神社の概要

相馬小高神社は、南相馬市小高区小高にある神社です。相馬小高神社は、元享3年(1323)に相馬孫五郎重胤公が下総国から当地へ御国換となった際、氏神として尊崇していた妙見神を、小高城内に祀り創建、慶長16年(1611)に廃城となってからも妙見社として祀られてきたといいます。明治維新後の神仏分離により小高神社と改称、明治31年県社に列しています。相馬太田神社相馬中村神社とともに相馬三妙見社の一つとして相馬野馬追が当地から出陣することでも著名です。

相馬小高神社
相馬小高神社の概要
社号 相馬小高神社
祭神 天之御中主大神
相殿 -
境内社 天満宮、雷神社、棚機神社
祭日 例大祭4月22日、野馬追祭4月24日
住所 南相馬市小高区小高字古城36
備考 -



相馬小高神社の由緒

相馬小高神社は、元享3年(1323)に相馬孫五郎重胤公が下総国から当地へ御国換となった際、氏神として尊崇していた妙見神を、小高城内に祀り創建、慶長16年(1611)に廃城となってからも妙見社として祀られてきたといいます。明治維新後の神仏分離により小高神社と改称、明治31年県社に列しています。

「小高町史」による相馬小高神社の由緒

昔上野国染谷川の川上に祀られ、桓武天皇(第五〇代)の御代国家鎮護の神として霊産神であらせられる天之御中主命をお祀りしたという。皇子葛原親王の子孫である相馬氏は代々氏神として尊崇し、古くは妙見大明神または略して妙見社という。相馬孫五郎重胤がこの地の検断職に補せられ、元享三年(一三二三)下総国よりこの地に移り小高に城を築き、御神体を小高城内に祀ったのが小高神社のはじまりである。後醍醐天皇(第九六代)の嘉暦元年(一三二六)妙見社として祀り、明治四年(一八七一)小高神社と改称し、明治三十一年(一八九八)県社に列した。昭和二十六年相馬小高神社と改称した。(「小高町史」より)


相馬小高神社所蔵の文化財

  • 相馬野馬追(国指定重要無形民俗文化財)
  • 小高城跡(福島県指定史跡)

相馬野馬追について

野馬追祭
承平元年(九三一)平将門が下総国小金ヶ原で行ったのがはじまりで、相馬藩公は五月中の申の日に騎馬数千を率いて野馬を追って士気を鼓舞した。廃藩後は祭日を七月一日、二日と改め、明治三十七年(一九〇四)からは七月十一、十二、十三日を祭日とし、昭和三十六年には七月十七、十八、十九日とし、更に昭和四十一年より七月二十三、二十四、二十五日と改められた。明治四十一年(一九〇八)十月九日、大正天皇が皇太子のとき御覧になり、昭和十六年四月七日代々木原頭で行なわれた興亜馬事大会に出場して天覧の栄に浴した。(「小高町史」より)

小高城跡

小高城は、小高川の氾濫原に舌状にのびた台地の上にあり、その台地の頸部を切り空濠とし、四周を削り、濠及び池をめぐらし、頂には土塁を築いている。
元亨三年(一三二三)四月、相馬重胤が下総国(今の千葉県)流山から移るにあたって、はじめ太田(現原町市)の別所館に住み、嘉暦元年(一三二六)この城に移った。建武三年(一三三六)に次子光胤に命じて修築させ、以後相馬氏の本拠として、南北朝の乱には北党の重要な位置を占めた。小高城攻防戦は相馬文書のほか、岡田・大悲山・飯野文書などによって明らかである。
慶長二年(一五九七)に相馬義胤が原町市の牛越城に移り、当城を支城としたが、同七年再びもどり、同十六年(一六一一)に相馬利胤が相馬の中村城へ移って廃城となった。
城内の相馬小高神社は相馬氏代々の守護神である妙見を祀った社で、相馬三妙見のひとつに数えられ、「相馬野馬追」の野馬懸はここで行われる。
なお、小高城は別名紅梅山浮舟城とも称されていた。
城郭としては小規模であるが、原形がよく保存されており、本県の中世城郭として注目すべきものである。(福島県教育委員会掲示より)

相馬小高神社の周辺図


参考資料

  • 「小高町史」