二本松神社。領主の守護八幡神と領民の守護熊野神を祭祀
二本松神社の概要
二本松神社は、二本松市本町にある神社です。二本松神社は、地頭として当地を領有した安達藤九郎盛長入道蓮西が久安年間(1145-1151)に熊野大神を勧請して田地ヶ岡城に創建、その後奥州探題畠山満泰が居城を田地ヶ岡城から白旗ヶ峰(二本松城)へ遷した際、熊野大神を遷して、八幡大神と共に祀っていたといいます。畠山家滅亡後も歴代領主より崇敬を受け、江戸時代には寛永20年(1643)に白河から二本松へ移封した丹羽左京大夫藤原光重は、扶持米80石と社領25石を寄進、さらに社頭50石を寄進しています。丹羽左京大夫は、二本松城増築に際し、当社を市街の中央(畠山家の重臣簑輪玄蕃の城趾栗ヶ柵)へ遷し、寛文元年(1661)に城主の守護神八幡神と、領民の守護神熊野神を合祀、二本松領総鎮守社と定め、丹羽家の守護神八幡神を下座(左)に、領民の守護神熊野神を上座(右)に祀り、御両社と称されていました。明治5年(1872)に二本松神社と改称しています。
社号 | 二本松神社 |
---|---|
祭神 | 伊邪那美命、速玉之男命、事解之男命、品陀和気命、氣長足姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 御三社(事代主命、少彦名命、菅原道真公) |
祭日 | 二本松の提灯祭り10月4-6日 |
住所 | 二本松市本町1-61 |
備考 | - |
二本松神社の由緒
二本松神社は、地頭として当地を領有した安達藤九郎盛長入道蓮西が久安年間(1145-1151)に熊野大神を勧請して田地ヶ岡城に創建、その後奥州探題畠山満泰が居城を田地ヶ岡城から白旗ヶ峰(二本松城)へ遷した際、熊野大神を遷して、八幡大神と共に祀っていたといいます。畠山家滅亡後も歴代領主より崇敬を受け、江戸時代には寛永20年(1643)に白河から二本松へ移封した丹羽左京大夫藤原光重は、扶持米80石と社領25石を寄進、さらに社頭50石を寄進しています。丹羽左京大夫は、二本松城増築に際し、当社を市街の中央(畠山家の重臣簑輪玄蕃の城趾栗ヶ柵)へ遷し、寛文元年(1661)に城主の守護神八幡神と、領民の守護神熊野神を合祀、二本松領総鎮守社と定め、丹羽家の守護神八幡神を下座(左)に、領民の守護神熊野神を上座(右)に祀り、御両社と称されていました。明治5年(1872)に二本松神社と改称しています。
境内掲示による二本松神社の由緒
二本松神社
当社の祭神は、向かって左が品陀和気命(八幡様)、右が伊邪那美命(熊野様)である。このため、江戸時代には御両社とも称されていた。
中世・室町時代十五世紀中頃、二本松城主・畠山氏により城内の白旗ヶ峰に合祀されて以来、近世・江戸時代初頭の会津藩領をも通じて蒲生・松下・加藤氏らによって崇敬されていた。
寛永二十年(一六四三)二本松藩成立に伴い、十万七百石の初代二本松藩主として入部した丹羽光重公は一層崇敬し、祭資として扶持米八十石、社領二十五石を給するとともに、二本松領総鎮守社とすることを公達した。まもなく城内・城下整備により、この地(旧・栗ヶ柵)に遷宮され、光重公の敬神愛民の精神から丹羽家の守護神を下座(左)に、領民の守護を上座(右)に祀られることになった。
その後、御両社は、明和元年(一七六四)に総修復されたが、同三年の大火で炎上、安永六年(一七七七)に再建されたものの、寛政六年(一七九四)の大火で再び焼失した。現在の社殿・拝殿は文化三年(一八〇六)に、随神門は文化四年に再々建されたものであり、二本松に残るこの期を代表する建造物といえる。
また、十月四・五・六日に秋の例大祭として執行される「二本松提灯祭り」は、七町内から緊迫塗りの太鼓台がはやし(県指定重要無形民俗文化財)もにぎやかに市内を練り歩き、夜は一台に約三百個の紅提灯を飾り付け、その絢爛豪華さは日本三大提灯祭りの一つといわれている所以である。(二本松観光協会掲示より)
二本松城内掲示による二本松神社の由緒
【御両社】
二本松神社は明治5年(1872)に改称するまでは、「御両社」が正式名称でした。それは寛文元年(1661)8月15日、それまで城内に別々に鎮座していた「熊野社」を「八幡社」と合祀し、二本松藩総鎮守として領民すべてが参拝できるようにと旧奥州道中に面した現在地に遷宮したことによります。3年後に例大祭が始められましたが、現在は県指定重要民俗文化財「二本松の提灯祭り」として知られています。
また、拝殿には9代藩主丹羽長富の奉納絵馬「源頼政鵺退治の図」、10代藩主の「丹羽長国奉納歌額」があり、ともに市有形民俗文化財として指定されています。(二本松城内掲示より)
「安達郡誌」による二本松神社の由緒
郷社二本松神社
字栗ヶ柵に鎮座、伊邪奈美命・事解男命・速玉男命・品陀和氣命を祀る。當社は、近衛天皇の御宇久庵年中當郡田地ヶ岡城の地頭安達藤九郎盛長入道蓮西守護神として熊野大神を勧請す。暦應四年畠山高國探題となり田地ヶ岡城に住す。其孫満泰城郭を二本松白旗ヶ峰に築き八幡大神を合祀す。其孫満泰城郭を二本松白旗ヶ峰に築き八幡大神を合祀す。後畠山家亡び伊達政宗蒲生氏郷上杉景勝松下重綱の領地となりしが歴代の諸侯皆當社を崇祀せり。
寛永廿年七月朔丹羽左京大夫藤原光重十萬七百石を以て白河より二本松に移封せらるゝや、夙に敬神の志深く特に當社を崇敬し、年々社頭五十石を奉納す。城郭を増築するに際し、光重八幡大神の霊夢に依りて狩野益信に御神體を描かせ自ら神號を書して當社に納められ、且つ城内は狭隘にして神威を汚瀆し奉らんことを恐れ、市街の中央往時畠山家の重臣簑輪玄蕃の城趾栗ヶ柵に奉り宏壮なる社殿を造營す。爾来幾多の星霜を經るの間、社殿は數次祝融の災に罹りたるを憂へ文化の災後社殿の屋根は悉く銅瓦を以て葺きたるため、其後市街大火數々起り四圍より猛烈なる火焔を被りたるも幸にして延焼を免れ、更に舊態を變ずることなし。輙ち現時の社殿是なり。親王家の御筆及舊藩主の御染筆等寶物多く保存せらる。(「安達郡誌」より)
二本松神社所蔵の文化財
- 二本松の提灯祭り(福島県指定史跡)
二本松神社の周辺図