如法寺。福島県耶麻郡西会津町にある真言宗豊山派寺院

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金剛山如法寺。徳一菩薩開創、会津三十三観音、会津ころり三観音

如法寺の概要

真言宗豊山派寺院の如法寺は、金剛山と号します。如法寺は、大同2年(807)に法相宗の徳一菩薩が開創、鳥追観音として著名です。鳥追観音堂は仁王門をくぐり、東から西へ進む参道先にあり、東口から入り西口へ抜けて、西方浄土へ向う構造となっており、会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外列格の総結願所となっています。また、如法寺本尊の不動明王は、会津五色不動の出発不動となっています。また境内のラッセル車・雪カキ車は昭和初期に製造され、昭和51年に廃車となった車両で、展示されているのは、当地と北海道の2ヶ所のみだそうです。

如法寺
如法寺の概要
山号 金剛山
院号 -
寺号 如法寺
住所 耶麻郡西会津町野沢如法寺乙3533
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



如法寺の縁起

如法寺は、大同2年(807)に法相宗の徳一菩薩が開創、鳥追観音として著名です。鳥追観音堂は仁王門をくぐり、東から西へ進む参道先にあり、東口から入り西口へ抜けて、西方浄土へ向う構造となっており、会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外列格の総結願所となっています。また、如法寺本尊の不動明王は、会津五色不動の出発不動となっています。

境内掲示による如法寺の縁起

仏都会津の祖徳一大師御開創千二百年
会津西方浄土鳥追観音如法寺縁起
謹み敬って、当山鳥追観音如法寺は、仏都会津の祖徳一大師が、千二百年前の平安初期大同二年に、会津西方浄土として御開創なされた、仏都会津屈指の観音靈場であります。
御本尊鳥追観世音菩薩は、行基御作と伝え、その御誓願により、衆生を導いてこの世の寿命を全うさせ、あの世は西方浄土、阿弥陀仏の世界に安楽往生が叶うと云われ、子授け、安産、子育て、厄除け、健康、長寿、諸願成就の広大無辺はご利益から、老若男女の篤い信仰を集めております。
また、西方浄土にころりと安楽往生が叶うところから、ころり観音とも尊称され、会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外列格の総結願所として仏都会津巡礼の聖地であります。
なお、ご参拝の順序は、東の仁王門より参道を真っ直ぐ西に向って進み、観音堂東口より入り、鳥追観音に二世(この世とあの世)の安楽をご祈願の後は、戻らずに西口より出れば、その彼方は西方浄土であります。
さらに当地は、北に霊峰飯豊山を望み、阿賀川が悠然と流れ、山内には、東北随一、県指定天然記念物、樹齢千二百年の高野槙が孤高に聳える、山紫水明の里であり、春は若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々の赴きもまた格別で、まさに命のふるさとであります。
皆様が、鳥追観音の大慈悲に浴され、命の有難さと懐かしいふるさとの温もりを味わい、身も心も癒され、明日への希望を頂いて、お慈悲の心を持って、貪らず、怒らず、愚痴らずに、掛替えの無い人生を歩まれんことを、心よりご祈念申し上げます。(境内掲示より)

境内掲示による如法寺の縁起

会津三十三観音番外札所3
鳥追観音 如法寺
当山は、奈良より来たりて、仏都会津の祖となった法相宗僧・徳一菩薩が「会津西方浄土」として開創された。
その時、記念植樹された高野槙は東北最大で、県天然記念物となっている。
現観音堂は、慶長16年(1611)の大地震で倒壊後、会津藩筆頭家老・岡半兵衛重政により再建された。東から入り参拝後、西から出る全国でも珍しい「東西向拝口」の御堂で、観音様の導きにより西方浄土への安楽往生を祈願したものである。
「隠れ三猿」の彫刻は、名匠・左甚五郎作と伝えられる。
また、慶応4年8月、戊辰戦争で野沢に出陣していた会津藩主松平容保公は、若松城へ帰還する時、戦勝祈願に訪れている。(「極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー」掲示より)

新編会津風土記による如法寺の縁起

観音堂
(境内東西三十八間、南北二十六間半、年貢地)町ノ南十二町二十間ニアリ、七間余ニ四間余、南向、正観音ヲ安ス、行基作ト云秘仏ナリ、コノ堂大同二年(旧事考ニハ大同元年ノ記に載ス)徳溢ノ創建ナリシカ、屡火災ニ罹リ、マタ慶長十六年ノ自身ニ毀顛セシヲ、同十八年蒲生家ノ臣岡半兵衛重政建立ス、其時ノ宗フア寛文ノ頃マテアリシカ今ハナシ、写アレハ左ニ載す、又如法寺承和二丙戌年七月十七日ト彫附シ鰐口アリシカ、コレモ今ハナシ、棟札ノ文如左
慶長十六辛亥年八月廿一日辰剋大地震有ノ御堂摧破攸右建立成就者大檀那岡野半兵衛殿現世安穏後生善生一一如意所
御本尊執金剛神 金剛山如法寺別当贈権大僧都頼誉
一神半文助成輩同遊九品蓮台上生乃至有無両縁群類衆生平等利益
同慶長十八癸丑年七月廿一日建立成就攸敬白
二王門。本堂ノ東ニアリ、三間半ニ二間二勺、東向、左右ニ力士ノ像ヲ安ス、長一丈、運慶作ト云
別当如法寺。本堂ノ北ニアリ、金剛山ト号ス、府下大和町金剛寺ノ末寺、真言宗ナリ、大同徳溢コノ地ニ観音ヲ安置ス、其時ノ創建ト云、後元享三年八月修覆ヲ加フトソ
客殿。七間ニ六間、東向、本尊弥陀
鐘楼。客殿ノ前ニアリ、鐘径一尺六寸、享保三年ノ銘アリ、モト奥州会津野沢如法寺大鐘伏願皇家万歳檀門千秋幹縁緇素志願成就貞治二癸卯年七月日(旧事雑考ニ十月日ニ作リ、下ニ比丘法羽謹誌ノ六字アリ)ト彫附属アル古鐘ヲコノ時改鋳ルト云
山王神社。客殿ノ巳ノ方ニアリ
弁天堂。客殿ノ辰ニアリ(新編会津風土記より)


如法寺所蔵の文化財

  • 如法寺観音堂(附)仁王門(県指定重要文化財)
  • 木造聖観音立像ほか三軀(県指定重要文化財)
  • 高野槙(県天然記念物)

如法寺観音堂(附)仁王門

広い寺域の本堂南方に建つ仏堂で、東側参道入口には仁王門を配しています。観音堂は畳敷きの内陣に須弥壇を置き、聖観音を安置した厨子が収められています。正面(東)と西面にそれぞれ唐破風の向拝をつけ、南面には唐破風を飾って三方出入口とするなど、庶民浄土信仰の強い影響を受けた特異な構造の建物です。
三手先の深い軒組をはじめ、各部とも禅宗様の入念なつくりで、向拝軒回りや蟇股なおには天地陰陽、動物、花鳥などの華麗な彫刻がなされ、内部の天井にも絵画が描かれるなお、装飾性に富んだ近世初期の典型的な仏堂といえます。
この建物の主要部は十七世紀初頭の手法によるものと考えられ、「会津旧事考」などにも、慶長十六年(一六一一)の大地震で倒壊し、同十八年(一六一三)再建したという記録があります。
また、堂内には、木造聖観音立像ほか三軀の福島県指定重要文化財(昭和三十四年三月十七日指定)が安置されています。(福島県教育委員会掲示(境内掲示より)

仁王門略記

大同二年(八〇七)千弐百年前、坂上田村麻呂の祈願により徳一大師が観音堂と共に創建以来、天治元年(一一二四)八八〇年前、二度の火災にて焼失後再建され、元享三年(一三二三)六八〇年前仁王堂修復、貞和二年(一三四六)六六〇年前大破の為修復し成功入仏した。
慶長十六年会津大地震にて倒壊し、同十八年(一六一三)三九一年前再建修復した。元文四年(一七三九)二六五年前には若松より仏師三人来りて再興し、二十日の開眼供養を執行した。建造物は軸部以下に鎌倉期の古式を留めている。
金剛力士は、寺院守護の為に仁王門の左右に安置されている。
当山は、特に仁王門から参道を直線に観音堂を通し、西方が見えて西の参道と結ばれ、東西向拝口である。この全国唯一の構造は、会津西方霊場の特長である。西は未来無限の世界であり、信心によって人生の幸福を開くのである。(境内掲示より)

如法寺の周辺図


参考資料

  • 「福島県耶麻郡誌」