大正寺。福島県耶麻郡北塩原村にある天台宗寺院

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打越山大正寺。徳一菩薩開創の旧北山薬師堂、北山里薬師の二つ児詣り

大正寺の概要

天台宗寺院の大正寺は、打越山弘仁院と号します。大正寺は、徳一菩薩が磐梯山慧日寺を建立した後に当地に会津五薬師の一つ北山薬師堂を建立、その別当寺として弘仁4年(813)に創建したと伝えられます。その後真言宗・浄土宗と改めたものの廃頽、時の領主蒲生秀行は、2歳児だった蒲生氏郷の病弱平癒を祈願、平癒したことから秀行の正室振姫は新たに里薬師を寄附、また蒲生秀行は弘眞院の秀榮に託して当寺を再興したといいます。蒲生氏郷の病気平癒により、二つ児詣りと呼ばれる参詣が行われるようになったといいます。

大正寺
大正寺の概要
山号 打越山
院号 弘仁院
寺号 大正寺
住所 耶麻郡北塩原村大字北山字寺ノ前4590
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大正寺の縁起

大正寺は、徳一菩薩が磐梯山慧日寺を建立した後に当地に会津五薬師の一つ北山薬師堂を建立、その別当寺として弘仁4年(813)に創建したと伝えられます。その後真言宗・浄土宗と改めたものの廃頽、時の領主蒲生秀行は、2歳児だった蒲生氏郷の病弱平癒を祈願、平癒したことから秀行の正室振姫は新たに里薬師を寄附、また蒲生秀行は弘眞院の秀榮に託して当寺を再興したといいます。蒲生氏郷の病気平癒により、二つ児詣りと呼ばれる参詣が行われるようになったといいます。

境内掲示による大正寺の縁起

北山里薬師如来の由来
二つ児詣りは、この寺から始まりました。当時の会津藩主、蒲生秀行公の長子亀千代丸(後の蒲生氏郷)は生まれながら病弱でいくら薬を飲んでも治らない。藩主秀行公は、桧原・金山視察の途中、大正寺に宿泊し住職より北山漆薬師の霊験あらたかなことを耳にして、早速北山漆大正寺に亀千代丸と奥方(振姫)を向かわしました。
亀千代丸と奥方は一日三座、二十一座の大護摩を七日間修し、ひたすら奥の院にお詣りし病気平癒の祈願をされた。
その甲斐あり亀千代丸は日々元気になりました。このとき丁度二歳であったため、会津の人々は子供が二歳になると北山漆薬師に詣で大石に我子の腹をあてて、無事息災を祈るようになったといわれる。
亀千代丸の生母 (徳川家康の三女振姫) は七日間逗留し護摩を修した大正寺に御礼として、人々が険しい坂道を登らずとも同様のご利益がありますようにと願って薬師三尊像をご寄附くださいました。
それ以後、奥の院を峯の薬師と呼び大正寺 (三尊像) を里薬師と称した。
その後奥の院御本仏像は、文永二年四月の火災により堂宇とも焼失しましたが、振姫ご寄附の里薬師三尊像は今も現存し平成十年に三光堂が建立され地蔵尊とともに安置されている。
三光とは、日月星の三つの光を現し (三光極楽鳥) 薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩を言う。
平成十六年打越峯山主孝由 敬白(境内掲示より)

「福島県耶麻郡誌」による大正寺の縁起

薬師堂(北山村字桂澤漆)
一本尊。薬師如来
一由緒。人皇第五十一代平城天皇御宇弘仁元庚寅年密宗の開祖弘法大師磐梯山惠日寺を建立し自ら丈六の薬師の像を刻みて安置す磐梯山の下病惱山と稱し此山及東の嶽に山の風氣悪うして瘴癘を作し稼穡を妨く以南十餘郷の地俄に湖水となるの變あり故に天皇大師に命し給ひ勅を受け来て加持す。今の河沼郡八田野村稲荷の森其産なり。邪魅加持力に轉せられ烏帽子嶽に匿る時に奔る所の蛇の尾此地に當る故に尾寺と云ふ茲より災なし。天皇賞め當郡の税を寺に附すといふ。大師居ること數年勅有つて洛に歸。同五甲午年夏人皇五十二代嵯峨天皇の御宇大師に命し給ひ再ひ勅を受け攝化利濟の爲め當國に下向す、時に此國の人民疫疾癩聚の病に染し死相道路に彳たり大師深く此を憐み給ひ衆生悉く除誓願成し給ひて當國鎮護の爲め五薬師を五方に安置す。東方は惠日寺大寺薬師、西方は西山邑の日光寺、南方は火玉堂寺今の雨屋の薬師なり、北方は北山峯の眞言院の薬師、中央は勝常寺の薬師なり。時に北方北山の方に當て遥に奇光赫奕たり、大師是を尋て北山の麓に至らせ給ふに嶮巖峭り峙ち擧登輙すからす漸く葛蔂を握りて北山の頂に至り給ふに蒼松古柏舊て霄漢に映す恍惚として嘆して曰く奇峰高峻何そ耆闇窟に似た清流恰も尼漣河に異らすと此景象を見給ふに紫雲〇〇せる石窟に在り方一丈の上に梵所あり是薬師如来の種子眞言なり靈區なり。大師深く敬信し給ひ此地にて千塵の護摩を修し錬若を草創し自ら一刀三禮の尊像を刻み安置し給ふ是れ當國鎮護五薬師の其一にして北方鎮護の尊像薬師瑠璃光如来脇士は日光月光菩薩守護の十二薬師及神将を安置し恭敬禮讃し給へは必至惱亂の有情此の照曜に遭て惚に蘇息せり病を除くこと洗ふか如し。誠なる薬師瑠璃光本願功徳經の衆病悉除の本願空しからす衆生是恭敬黎庶皈伏すること言を以て演へかたし。爾来八百餘年の星霜を經て堂宇荒廢に屬す。傳に曰疇昔慶長年中時の領主蒲生秀行公竝御令室諸共朝夕御信仰の餘り自御守本尊と深く敬禮なさしめ給ひ北山薬師靈像の靈驗に御成あるて資財を擲って精舎を營建し給ひ殿宇の輪奐俄然として善美を盡し闔國随喜の歩て運貴賤信敬の神を連め殊に若干の寶物を寄附し且つ蒲生秀行公密宗の秀榮僧正に命して曰く捁る靈應希代の尊像を遠境の靈窟に安置せんこと若し不期の禍ひ無きにもあらす遠き慮をめくらし是より以降年々八月七日二夜三日を限り當北山に供奉し敬禮し遠近村里の一切衆生に結縁なさしめ給ひ長日弘眞院の本尊と崇め奉り給へとて慶長十六秋麓の眞言院を若松允殿館(今は年貢町村と稱す)に移し弘仁五年宗祖弘法大師の開基其眞言宗眞言院を引移り弘眞院と改稱し從爾今日に至るまで別當は弘眞院にて務めたり
一建立:弘仁五甲午年七月 宗祖弘法大師創立
一堂宇:本堂縦四間横四間。御拝縦一間横二間
一縁日:九月三日(「福島県耶麻郡誌」より)

「新編會津風土記」による大正寺の縁起

薬師堂村より丑寅の方十七町三十間山の上にあり九折にして登ること一町十間計堂四間四面南向北山薬師と云、又峯の薬師とも稱ふ。弘仁年中空海本州に来りし時此地において護摩を修し自ら薬師の像を刻み堂宇を建立してこゝに安置し又別に一寺を草創して此堂を守らしむ。今の大正寺これなりと云。永禄年中大正寺廢絶におよひ此堂宇も毀顛せしを慶長年中に蒲生忠郷再ひ廢したるを興し府下東黒川町分弘眞院の開山秀榮を請て供養の導師とす。因って其後弘眞院司となる。堂の後に奥の院と稱して岩石多く重り家屋の如くなる所あり。其中空虚にして方一丈高九尺計上にさし覆へる岩の外面に圓かにくほめる所あり。舊其中に蓮華座竝梵字ありしと云。今は文明ならす。初空海此地に至りしとき自然に此梵字ありしかは奇瑞に感し護摩を修し薬師の像を刻て安せしと云。或は空海自ら此字を彫りし共云。會式は八月七日八日なり。本尊薬師立像長二尺脇士日光月光竝十二神将を安す、會津五佛の一なり。(「新編會津風土記」より)


大正寺の周辺図


参考資料

  • 「福島県耶麻郡誌」