下荒井観音堂。福島県会津若松市北会津町下荒井にある観音堂

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下荒井観音堂。会津三十三観音14番、旧蓮華寺境内地

観音堂の概要

会津若松市北会津町にある下荒井観音堂は、会津三十三観音めぐり14番札所です。下荒井観音堂の創建年代等は不詳ながら、かつては妙法寺の観音堂として下荒井の北部に奉安されていたといいます。妙法寺が寛永年間(1624-1645)に廃寺となり、蓮華寺境内(当地)へ移されたといいます。蓮華寺は明治維新に際して廃寺となり、現在は護命山宝寿院が別当を(管理)しています。また当地にあった蓮華寺が飯豊山神社の別当寺を務めていたことから、当地にもその分霊が祀られている他、修験者森野家の屋敷内に祭られていた虚空蔵堂が平成15年当地に再建されています。御朱印は護命山宝寿院で受け付けています。

観音堂
観音堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 下荒井観音堂
住所 会津若松市北会津町下荒井16
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



下荒井観音堂の縁起

下荒井観音堂の創建年代等は不詳ながら、かつては妙法寺の観音堂として下荒井の北部に奉安されていたといいます。妙法寺が寛永年間(1624-1645)に廃寺となり、蓮華寺境内(当地)へ移されたといいます。

境内掲示による下荒井観音堂の縁起

この観音堂は、もとは下荒井村の北にあった妙法寺の観音堂であったが、江戸時代前期の寛永年間にこの寺が廃寺となり、蓮華寺境内の現在地にうつされたとされている。
現在の建物は、江戸時代後期の寛政元年(一七八九)に改築されたものであり、東西三間(五・四メートル)、南北四間(七・二メートル)で東向きに建てられている。
柱や肘木は唐様建築様式が取り入れられているのに加えて、彫刻も非常に凝っていながら均整がとれているなど、江戸時代後期の建築であるが、安土桃山時代の様式を残しており、このような寺院建築は市内では数が少なく貴重なものである。
この観音堂は会津三十三観音の十四番札所でもあり、本尊は江戸時代前期に作られた聖観世音菩薩である。(会津若松市教育委員会掲示より)


下荒井観音堂境内について

元蓮華寺須美檀

下荒井虚空蔵堂由来
当虚空蔵堂は、もと当村修験者森野家の屋敷内に在り、酉の方より村中を守りご利益を授けられ、村人の尊信厚く縁日は休日として盛大に祭典が行われてきた。
堂は安永八年(一七七九)に再建されたもので二百有余年経過し老朽甚だしく、現状維持が困難な状態になってきた。よって平成十五年お堂と本尊その他の仏像(十三体)を引き受け、旧蓮華寺境内(現在地)に旧虚空蔵堂と同じ規模で再建したものである。
本尊虚空蔵菩薩は宮殿入り木造で像高五十七センチの立像である。縁日は旧来どおり九月十三日に御開帳法要を営む。
正面うえのしめ縄は「けんだい」と言い毎年正月に奉納される。
平成十六年三月吉日
別当護命山宝寿院識(境内掲示より)

飯豊山と蓮華寺

飯豊山頂は小さな地図で見ると、山形県と新潟県の境にあるように見えますが、三国小屋から飯豊山頂を経て御西岳までは福島県なのです。
山頂の飯豊山神社は白雉三年(652年、約1360年前)中国から来た僧知道が開いたとも又は、僧徳一、空海、行基や、猟師の南海、知影が開いたとも言われている。
その後、文禄四年(1595)蒲生氏郷が、ここに蓮華寺を再建した僧(十三世宥明)命じて荒れ果てていた参道を整備させ、これ以後、麓宮のある福島県側の一ノ木口が表参道とされた。その後しばらく蓮華寺が飯豊山神社の別当を務めていた。(石の建物の後ろに小さな飯豊神社の社があるのはその為である)其の後、蓮華寺は蒲生秀行に一ノ木村五十石の知行を与えられた。松平氏の時代にも会津の守護として手厚く保護されてきた。又、山形の米沢藩も岩倉神社が建立され同様に保護していた。明治になり廃藩置県の時、東蒲原郡が会津から新潟県へ編入され、山頂の神社も一緒に新潟県になりそうになったが、麓宮のある一ノ木村が、奥宮と麓宮は一体であると主張、内務省裁定(明治40年)により福島、山形、新潟三県の県境の三国小屋~飯豊山を経て御西岳のある御西小屋附近までの約7.5km位(ここより会津坂下町迄)と幅3尺(90センチメートル、山頂神社付近は幅300メートル)が福島県となった。大きな地図で見ると山形・新潟県堺に沿って盲腸のように点線が伸びているのが良くわかります。北会津村誌より(境内掲示より)

観音堂の周辺図


参考資料

  • 「北会津郡誌」

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