阿弥陀寺。福島県喜多方市塩川町にある浄土宗寺院

猫の足あとによる首都圏外寺社案内

塩川山阿弥陀寺。喜多方市塩川町にある浄土宗寺院

阿弥陀寺の概要

浄土宗寺院の阿弥陀寺は、塩川山と号します。阿弥陀寺は、山城国東山禅林寺の門徒空暇が天文5年(1536)塩川に開創、天正年間(1573-1592)に当地へ移転したといいます。

阿弥陀寺
阿弥陀寺の概要
山号 塩川山
院号 -
寺号 阿弥陀寺
住所 喜多方市塩川町反町925
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



阿弥陀寺の縁起

阿弥陀寺は、山城国東山禅林寺の門徒空暇が天文5年(1536)塩川に開創、天正年間(1573-1592)に当地へ移転したといいます。

「塩川町史」による阿弥陀寺の縁起

阿弥陀寺(塩川町字反町)
阿弥陀寺の本堂は、明治二十年と大正五年の塩川大火の後に再建されたものである。大正六年に現在の本堂は再建され、今日にいたるという。再建される以前の阿弥陀寺の姿は、明治十一年の「寺院明細帳」によって知ることができる。これによれば、回禄以前の本堂は「縦七間半、横八間」で、「縦八間、横四間一尺」の庫裏、境内には「縦九尺、横九尺」の鐘楼、「縦三間、横二間」の木部屋など、があったことが知られる。
阿弥陀寺の由来について、「浄土宗寺院由緒書」や『新編曾津風土記」は、ともに天文五年(一五三六)僧空閑の開創と伝える。また、天正年中(一五七三〜 一五九二)に現在地とほぼ同じと思われる、「荒神社の北」に移ったと『新編会津風土記」は伝える。
藩政期の阿弥陀寺の姿を知ることができる資料は僅かであるが、江戸前期の在銘の双盤があり、手がかりとなる。双盤にはつぎのような刻銘がある。
為浄雲順誉妙貞願誉貞山欣誉[肙犬]妙専菩提也寄進塩川村薄木七右衛門
塩川山阿弥陀寺住物万治二己亥年五月十五日縁蓮社三誉是傳
この銘により、万治二年(一六五九)に塩川村の薄木七右衛門が先祖の菩提を弔うため、阿弥陀寺の住持縁蓮社三誉の代に寄進したものであることが知られる。双盤は梵音具のひとつで、引声念仏の際に用いられるものである。阿弥陀寺の双盤は、径が三〇・六五センチメートル、内径は二七・五センチメートル、高さは八〜七・八五センチメートルを測る。銅造の双盤は肉厚で、懸架のために付けられた両耳にはS字を描く雲形の意匠を施している。挽物仕上げを施した丁寧な造りであり、銘の切りも冴えた優品である。
また、『会津鑑』は、宝永六年(一七〇九)に「阿弥陀寺鐘成」と伝え、『新編会津風土記』では、「鐘棲客殿の右にあり、鐘径二尺一寸、寛延二年」の彫り付けがあると記す。宝永六年と寛延二年(一七四九)との聞は四〇年あまりであるが、短期間に二口の鐘が寄進されたのであろうか。一般に口径が一尺八寸以上のものを梵鐘といい、口径が一尺七寸以下の鐘は半鐘と呼ばれる。寛延二年に寄進された鐘は、口径が「二尺一寸」とあるので、高価な梵鐘であったことが知られる。
阿弥陀寺に伝わったこれらの什物からは、藩政期の寺が有力な檀越の帰依を背景として整っていった様子がうかがえる。
天文五年、阿弥陀寺を開創した空閑は、山城国東山禅林教寺の門弟であったという。周知のとおり、禅林寺は、俗に、水観堂と呼ばれ、浄土宗の西山禅林寺派の総本山であった。その後、阿弥陀寺は藩政期に入ると本覚寺を本寺としたようである。「会津領内寺院修験本末写」(『磐梯町史』資料編IV)によると、阿弥陀寺は、下野国大沢円通寺末であった若松寺町本覚寺を本寺としていたとある。阿弥陀寺は、下野の檀林円通寺を本山とする、海土宗名越派の寺院であったことが知られる。(「塩川町史」より)

「新編会津風土記」による阿弥陀寺の縁起

(塩川組端村)阿弥陀寺
(境内東西二十間、南北二十二間、年貢地)荒神社ノ北ニアリ、開基ノ僧ヲ空閑ト云、空閑ハ山州東山禅林教寺ノ門徒ナリ、天文五年ノ春当村ニ来テ一寺を剏メ、浄土宗府下寺町本覚寺ノ末山トナル、境内ニ潮ノ出ル清水アリシ故(今村西ニアルモノコレナリ)山号ヲ塩泉山ト云、天正年中ココニ館築シトキ寺ヲ今ノ地ニ移セリト云、旧ハ境内ニ地蔵堂アリ、今ハ廃シテ客殿ニ安置ス、長三尺余、運慶作ト云
客殿。八間半ニ六間、東向、本尊三尊、弥陀又厨子入ノ弥陀ヲ安す、座像長一寸八分、恵心作ト云伝フ
鐘楼。客殿ノ右ニアリ、鐘径二尺一寸、寛延二年施主深田文内・栗村左平・栗村数右衛門・栗村弥右衛門ト彫附アリ
雲岫庵。鐘楼ノ東ニアリ、五間ニ三間。(「新編会津風土記」より)


阿弥陀寺の周辺図


参考資料

  • 「塩川町史」
  • 「新編会津風土記」