妙法寺。福島県会津若松市馬場本町にある顕本法華宗寺院

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宝塔山妙法寺。顕本法華宗開祖日什大正師入滅の地、顕本法華宗別格山

妙法寺の概要

顕本法華宗寺院の妙法寺は、宝塔山と号します。妙法寺は、顕本法華宗の開祖で、朝廷より二位僧都の位を授けられた日什上人を迎えるため、明徳2年(1391)城主蘆名直盛が当寺を創建、日什上人は翌年(1392)当地で入滅したといいます。日什上人は、会津滝沢出身で、城主蘆名盛宗の息女を母に持ち、比叡山延暦寺学頭職も務めた碩学の僧でしたが、日蓮聖人の「如説修行鈔」「開目鈔」を読み、天台宗から日蓮宗に改めて、朝廷に奏聞、顕本法華宗の本山京都妙満寺を創建した他、法華山本興寺などを開創、また経王山本光寺などを改宗するなどした著名な僧侶です。

妙法寺
妙法寺の概要
山号 宝塔山
院号 -
寺号 妙法寺
住所 会津若松市馬場本町3-34
宗派 顕本法華宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙法寺の縁起

妙法寺は、顕本法華宗の開祖で、朝廷より二位僧都の位を授けられた日什上人を迎えるため、明徳2年(1391)城主蘆名直盛が当寺を創建、日什上人は翌年(1392)当地で入滅したといいます。日什上人は、会津滝沢出身で、城主蘆名盛宗の息女を母に持ち、比叡山延暦寺学頭職も務めた碩学の僧でしたが、日蓮聖人の「如説修行鈔」「開目鈔」を読み、天台宗から日蓮宗に改めて、朝廷に奏聞、顕本法華宗の本山京都妙満寺を創建した他、法華山本興寺などを開創、また経王山本光寺などを改宗するなどした著名な僧侶です。

境内石碑による妙法寺の縁起

顕本法華宗開祖日什大正師は正和三年(一三一四)四月二十八日会津滝沢にて誕生、父は石塚(旧石堂)覚如、母は城主蘆名盛宗の息女清玉、十五歳にして両親を喪い十九歳比叡山に上り慈遍僧正について剃髪得度、名を玄妙と改む。三十八歳学頭職に推されて山門三千の僧を教導し五十八歳辞して故郷に帰り羽黒山東光寺を管す。縁あって日蓮大聖人の「如説修行鈔」「開目鈔」を読み多年の疑問頓に解け、末法衆生の救済は久遠本仏釋迦牟尼仏の大慈悲と題目受持の感応にありと自解伝承す。直ちに仰いで日蓮大聖人に帰し名を日什と改め下総に赴いて聖人の御書を拝す。聖人滅後百年の永徳元年妙法広布の祖猷を体し六十八歳の高齢をも厭わず上洛して朝廷に奏聞し、帝都弘通の綸旨及び「二位僧都」の位を賜わる。それより東奔西走公家武家の奏聞諫訴を続け所々に寺院を建立。康応元年(一三八九)京都室町六条坊門に妙塔山妙満寺を創建して根本道場となす。今日の顕本法華宗総本山これなり。明徳二年檀越日出山又次郎の請を享け帰郷せる師に、城主蘆名直盛は帰依受戒して当寺を建立寄進す。翌三年(一三九二)「定日什跡之事」「一旨三通の置文」を遺して門弟に後事を託し二月二十八日世寿七十九歳を一期として御入滅。即ちこの宝塔山妙法寺は門流緇素の鑽仰護持すべき開祖日什大正師御入滅の霊場なり。経巻相承の清冽なる法流連綿として相続しここに第六百遠忌を迎えるに当り些か報恩の為にこの碑を造立し以て恩山の一塵に擬し奉る。南無妙法蓮華経(境内石碑より)

「若松市史」による妙法寺の縁起

妙法寺
寶塔山と號し、甲賀町に在り。本山は京都妙満寺にして明徳二年の創建なり。永徳元年七月六日後圓融院天皇洛中宗弘之綸旨二位僧都之口宣を賜り、一派建立の勅許を蒙り、開山日什生處入滅の地なるを以て、紫衣着用派内三本山の一ヶ寺なりしが、明治六年より妙満寺所轄となり、現今また本山となる。本尊は釋迦如来多寶如来なり。明治戊辰の亂に兵變に罹り、堂宇烏有に歸したりしが、大正元年より再建に着手して舊觀に復したり。(「若松市史」より)


妙法寺の周辺図


参考資料

  • 「若松市史」

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