上高野原稲荷神社|八千代市上高野の神社

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上高野原稲荷神社|八千代市上高野の神社

上高野原稲荷神社の概要

上高野原稲荷神社は、八千代市上高野にある神社です。上高野原稲荷神社は、文久2年(1862)の佐倉藩藩政改革により当地周辺(上高野原)を開発、開発にあたり藩士や子弟を士分の農兵として開発にあたらせたものの、明治維新により解散、当地に定住した元農兵(開拓農民)に与えられた土地が少なく生計が立たなかったことから、元代官の今村省吾義則が交渉にあたり土地の追加譲渡を認めさせたことから、開拓農民が感謝し、代官所跡鎮守神に屋敷神の稲荷神社を合祀、今村稲荷と称したといいます。

稲荷神社
上高野原稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 -
例祭日 -
住所 八千代市上高野1129上高野原公会堂
備考 -



上高野原稲荷神社の由緒

上高野原稲荷神社は、文久2年(1862)の佐倉藩藩政改革により当地周辺(上高野原)を開発、開発にあたり藩士や子弟を士分の農兵として開発にあたらせたものの、明治維新により解散、当地に定住した元農兵(開拓農民)に与えられた土地が少なく生計が立たなかったことから、元代官の今村省吾義則が交渉にあたり土地の追加譲渡を認めさせたことから、開拓農民が感謝し、代官所跡屋敷神の稲荷神社に今村氏を合祀、今村稲荷と称したといいます。

パンフレット「八千代の歴史遺産散歩」による上高野原稲荷神社の由緒

今村稲荷神社
上高野原稲荷神社は通称「今村稲荷」といわれる。幕末の代官手代今村省吾義則が一身を投げ打って住民の生活安定のために奔走してくれた徳を偲び代官所跡屋敷神の稲荷神社に今村氏を合祀したと言う。境内には子安塔をはじめ、出羽三山供養塔などがある。(パンフレット「八千代の歴史遺産散歩」より)

境内石碑による上高野原稲荷神社の由緒

上高野原稲荷神社縁起
佐倉藩では文久二年藩政改革を行い、井野上高野原野を藩士と子弟に開墾をさせ、更に農兵を募り士分となし、佐倉街道、上高野原、代官屋敷に配属した。代官今村省吾義則は遠山屋敷と上高野原野の小銃訓練時、陣組の指揮をした塚もあり(省吾塚)、二重堀や土塁を築き、代官屋敷は館城になった。だが佐倉藩は官軍に恭順し、明治四年解散、藩士、子弟は帰藩し、農兵の一部(五十一戸)がこの地に定住した。二反五畝が与えられたが開拓農民は生計が立たず、省吾は一身をなげうち重役に働きかけ一町五反余を得て生活は安定した。人々は省吾の徳を偲び代官所跡の鎮守に屋敷神であった稲荷神社を合祀した。主祭神の倉稲魂と共に十月廿日を例祭日と左雨報賽を絶やさず今日に及ぶ、今村稲荷と呼ばれる所以である。(以下省略)(境内石碑より)


上高野原稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「八千代市史」
  • 「印旛郡誌」