大蓮寺|浦安市堀江にある浄土宗寺院

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光縁山大蓮寺|行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所

大蓮寺の概要

浦安市堀江にある浄土宗寺院の大蓮寺は、光縁山勢至院と号します。大蓮寺は、小田原大蓮寺の僧覚誉存栄大和尚が天文13年(1544)に創建したといいます。第5世頓誉上人の弟子学誉上人(演蓮社學譽大僧正生阿一呼冏鑑大和尚)は、小石川伝通院、結城弘経寺、鎌倉光明寺の住職を歴任し芝増上寺第39世となった名僧です。境内の久助稲荷は、学誉上人が当寺で修行していたころにいた使用人で、後に「大蓮寺の稲荷様が荒れ果ててしまったので復興したい」と学誉上人に頼みにきたので、「神位」と建設費用を大蓮寺に送ったところ、久助二十数年前に亡くなっていたというもので、稲荷様の身代わりになって現れた久助に感謝して称されているそうです。行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所33番です。

大蓮寺
大蓮寺の概要
山号 光縁山
院号 勢至院
寺号 大蓮寺
住所 浦安市堀江2‐6‐35
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大蓮寺の縁起

大蓮寺は、小田原大蓮寺の僧覚誉存栄大和尚が天文13年(1544)に創建したといいます。第5世頓誉上人の弟子学誉上人(演蓮社學譽大僧正生阿一呼冏鑑大和尚)は、小石川伝通院、結城弘経寺、鎌倉光明寺の住職を歴任し芝増上寺第39世となった名僧です。境内の久助稲荷は、学誉上人が当寺で修行していたころにいた使用人で、後に「大蓮寺の稲荷様が荒れ果ててしまったので復興したい」と学誉上人に頼みにきたので、「神位」と建設費用を大蓮寺に送ったところ、久助二十数年前に亡くなっていたというもので、稲荷様の身代わりになって現れた久助に感謝して称されているそうです。

「浦安市史」による大蓮寺の縁起

光縁山大蓮寺は浄土宗鎮西派に属し、堀江四丁目一四番二号にある。天文十三年(一五四四年)三月に開山の覚誉存栄大和尚が、静岡県小田原の大蓮寺をこの地に移したものといわれる。本尊は当初勢至菩薩であったが、江戸時代に火災で霊像を焼失したため、その後は阿弥陀如来を祀るようになった。檀家数は約四五〇戸、境内は約一六五〇平方メートル、境内にある鐘楼は、本町唯一のものである。現住職は江口定信で、当寺は、江戸時代初期に芝増上寺の住職となった学誉上人を輩出している。(「浦安市史」より)

境内久助稲荷について

久助稲荷は、相模国小田原の大蓮寺境内に祀られている福徳稲荷の分身として、天文十三年(一五四四)、堀江村の大蓮寺創建と同時に建てられたものといわれています。
大蓮寺第五代住職頓誉上人には、学誉という弟子がいました。仏門において一心に勉学に励んだ学誉は、後に芝増上寺の第三十九代法主を務める大僧正になりました。
ある日のこと、学誉上人の住まいの庭先に、大蓮寺にいたころ仕えていた使用人の久助が立っていました。久助は、大蓮寺の稲荷様が荒れ果ててしまったので復興したいと、学誉上人に頼みにきたのでした。
学誉上人は、大蓮寺にいた若いころ、稲荷様に祈願したことを思い出し、久助に改築を約束しました。学誉上人は、さっそく京都伏見稲荷へ使者を出し、正一位の神位を受けると、久助の約束を果たすという手紙を添えて、稲荷神社の建設費用を大蓮寺に送りました。
ところが、久助は二十数年前に亡くなっていたのでした。学誉上人は、稲荷様の身代わりになって現れた久助の志に深く感動し、享保十三年(一七二八)、「久助稲荷」と名前を改め社殿を新築しました。
毎年五月中旬には、お稲荷様のお祭りが行われています。(浦安市教育委員会掲示より)


大蓮寺所蔵の文化財

  • 大蓮寺鐘楼
  • 大塚亮平顕彰碑
  • 宇田川六郎兵衛墓

浄行堂

鐘楼とは、鐘つき堂のことです。この鐘楼は享保十九年(一七三四)、芝増上寺の住職になった高僧「学誉」の遺徳を惜しんでつくられました。
この鐘楼にある梵鐘(つりがね)は、毎年五月二十三日から七月二十三日までの農繁期に、農作業に従事する人のための時報(時の鐘)や十二月三十一日の除夜の鐘として利用されてきました。
鐘楼は腐朽のため、明治十年(一八七七)に再築され、鐘は昭和十八年(一九四三)十一月には、太平洋戦争下の金属供出運動によって、献納されてしまいました。
現在の梵鐘は、檀家四百余名が毎月三十円ずつ積み立てて、帝室技芸員の香取秀真、正彦父子に依頼して昭和二十六年(一九五一)に再鋳されたもので、現在に至っています。(浦安市教育委員会掲示より)

大塚亮平顕彰碑

大塚亮平は、嘉永二年(一八四九)、堀江村に生まれました。若い頃から俳句を好み、秋江菴釣月と称していました。明治五年(一八七二)学制が施行されるや翌年に、浦安で最初の小学校である「堀江小学校」を創設しました。八年には堀江村学校事務掛を努めたほか、戸長や堤防取締を兼務し、また宮内省御用掛、江戸川筋猟場監守など数々の公職も歴任しました。
また、明治十七年(一八八四)からは、堀江村の漁業組合長、さrない東京湾水産諮問会郡総代を努め、水産界でも活躍しました。
明治十八年(一八八五)、亮平は村民の生活を豊かにしようと、浦安(「浦安」の地名は明治二十二年から)、葛西、深川などの有志とともに海苔養殖事業を計画し、深川に海苔養殖場を設置するため、東京府に出願しました。当初、人々はこの事業の将来性が理解できず、反対もありましたが、亮平はあきらめずに人々に説得にあたりました。そして、翌十九年には東京府に出願した深川越中島地先の十万坪のうち、浦安では一万五千坪の使用権を取得しました。
後に海苔養殖は、浦安の基幹産業になりますが、亮平はこの事業の盛況を見ることなく、明治二十二年(一八八五)に四十一才でこの世を去りました。
この碑は、多くの分野で貢献した業績を讃え、村民によって、明治二十五年(一八九二)に建てられました。(浦安市教育委員会掲示より)

宇田川六郎兵衛墓

宇田川六郎兵衛は、天保四年(一八三三)、堀江村で生まれました。昌平坂学問所(神田湯島にあった江戸幕府直轄の学問所)で学び、その後、自宅に学問所を開き、子どもを教育しながら、剣道も教えていました。
明治時代に入った頃のことです。魚介類を藩船で日本橋の魚河岸に運ぶ際、中川番所(現在の江東区大島)の検査に時間がかかり、魚介類が腐ってしまうので、人々は困っていました。これを知った六郎兵衛は代官と交渉し、以後堀江村の運搬船は無検査え通れるようになったといわれています。
他にも、村同士の争いを解決するなお、村民に信頼されていました。
また、六郎兵衛は漁民の収益増大を図るため、中洲(浜町がし)に「〇宇」と称する魚市場を開設し、漁民から感謝されました。
六郎兵衛は多くの人に信頼され、業績を残しましたが、明治二十六年(一八九三)、六十歳でこの世を去りました。(浦安市教育委員会掲示より)

大蓮寺の周辺図


参考資料

  • 「浦安市史」

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