國司神社|館山市沼の神社

猫の足あとによる千葉県寺社案内

國司神社|安房国国司源親元を祭神とする社

國司神社の概要

國司神社は、館山市沼にある神社です。國司神社は、嘉保3年(1096)から康和2年(1100)まで安房国の国司を務めた源親元を祭神とする神社です。別れを惜しんだ村民に源親元が渡した直衣の左袖を神体として、永久2年(1114)に創建したといいます。

國司神社
國司神社の概要
社号 國司神社
祭神 源親元命
相殿 -
境内社 -
例祭日 例大祭:8月1日
住所 館山市沼931
備考 -



國司神社の由緒

國司神社は、嘉保3年(1096)から康和2年(1100)まで安房国の国司を務めた源親元を祭神とする神社です。別れを惜しんだ村民に源親元が渡した直衣の左袖を神体として、永久2年(1114)に創建したといいます。

「千葉県神社名鑑」による國司神社の由緒

当社は安房守金吾源親元を祀る。嘉保三年安房守に任ぜられ、仁政を施して州民を撫育し、庶民はその徳を敬服した。親元は任を終えて京都に帰還されるとき離別を惜しむ州民にその直衣の左袖を解いて遺した。親元は長治二年一一月七日、享年六八歳で亡くなったが、後鳥羽天皇永久二年甲午、庶民相議って祠をたて、その袖を納めて国司神社と称し、その地を国司山と号した。(「千葉県神社名鑑」より)

「館山市史」による國司神社の由緒

大字沼のうち柏崎に鎮座。
祭神は平安中期の国司安房守源親元。社名のゆえんである。
源親元の父祖の名は明らかでないが、家は代々武臣であった。三善為康(一〇四九-一一三九)の『後拾遺往生伝』巻上や、虎閑師練(一二七八-一三四六)の『元享釈書』巻十七にこのひとの事蹟を記している。これらによれば、後に神になったような人でも、若いころは相当に気が荒く、常に人といさかいが絶えなかった。しかし、三十三歳の時衛門府に召され、まだ皇太子であった後三条天皇の警護に当たるころ、浄土念仏の教に深く帰依し、いたく過ぎし日の行跡を悔い、別人のように優しくなった。したがって、後三条天皇即位の後、命により検非違使に任ぜられ、悪党追捕や刑獄の事を司どるようになると、もっぱら陰徳を行ない、つとめて刑を軽くした。つまり刑を課すより罪人の悔悟に待ったのである。ついには京都東山の地に阿弥陀堂を建立し、自分に似せて僧形の木像を作り阿法と名づけ、本尊と向い合わせに安置した。堂は美しく輝くようであったので、人々は光堂と呼んだ。
そのような人だったから、堀河天皇の嘉保三年(一〇九六)、国司となって安房に着任すると、まず先に仏事を行なった。
それまでは、鶴谷八幡神社の項で述べたように、国司は着任と同時に、神社参拝を行なうのが例であったから、これは全く異例のことであった。しかし、念仏の人として、それほどに徹底していたのである。
間もなく、この地に五間四面の堂を建て、丈六の阿弥陀像を本尊とした。公費は一切使わず俸禄の余りをこれに当てた。そのうえ、役人であると里人であるとを問わず、熱心に念仏をすすめ、もし篤信の人で罪を犯す者があれば、検非違使時代と同じように、まげて刑をゆるめた。したがって、官も民もなく念仏に励み、仏事に勤める人が多くなった。そればかりでなく、税を軽くし民業をいたわったので、人々は慈父のように親元を慕った。そんな有様であったので、やがて四年の任期がきて、いよいよ京都に帰ろうとする日、すなわち、康和二年(一一〇〇)正月十六日、別離を悲しんだ民衆は、親元をとり巻き、泣いて出立をはばんだ。やむなく親元は、着ていた直衣(ひたたれ)の左袖を解いて記念に残すということでやっと人々と別れることができた。
しかし、親元は京都に入る前に園城寺(三井寺)で出家し、その後、東山に建てた阿弥陀堂に篭って念仏三昧に日を送った。がそれもまた短かく、長治二年(一一〇五)十一月七日、ついに帰らぬ人となった。行年六十八であった。臨終に当って種々の奇瑞があり、人々はまた悲しみを新らたにしたという。
十年後房州でも、心に深く刻まれた人徳と、仁政が忘られず、人々集まりともに計って祠を建てた。して形見の片袖をみ霊代とし、国司明神ととなえ、山を国司山と名付けたのである。時に後鳥羽天皇の永久二年(一一一四)であった。
柏崎は、親元の滞在し乗船した所であり、片袖を受けた記念すべき土地であった
。地元柏崎では現在も、親元出立の日の一月十六日を祭日とし、神社でおびしゃを行なう。また別に、部落内の細分した組(班)のなん組かでは、左袖の無い親元の、神像を画いた掛軸を掲げ、当番の家(宿)でおびしゃをする。この方をうちかん講(氏神講)という。宿はクジで決め、一年で交替する。講ではご馳走を作り、神前に供え、またともどもに飲食して祝う。現在廃寺となったが、かつては神社脇の台地に、泉光院があり、神社の管理をしていた。なお、親元は沼の総持院(大寺)を聞き、火災にあった清澄寺も再建した。また、沼に菅公を祀り(現天満神社)、鷹の島、沖の島に弁才天を祀り、ほかにも社寺を創建したとも伝えられる。(「館山市史」より)


國司神社の周辺図


参考資料

  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「館山市史」