岩井神社|南房総市の神社高崎の神社

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岩井神社|南房総市の神社高崎の神社

岩井神社の概要

岩井神社は、南房総市高崎に在る神社です。岩井神社は、磐井郷の総社として治安3年に創建、牛頭天王八雲大社と称したといいます。明治9年村社に列格していました。

岩井神社
岩井神社の概要
社号 岩井神社
祭神 素盞鳴尊、大己貴命、少彦名神
相殿 -
末社 金刀比羅宮、若宮八幡宮
祭日 -
住所 千葉県南房総市高崎906
備考 磐井郷の総社


岩井神社の由緒

岩井神社は、磐井郷の総社として治安3年に創建、牛頭天王八雲大社と称したといいます。明治9年村社に列格していました。

「千葉県神社名鑑」による岩井神社の由緒

旧号を磐井郷牛頭天王八雲大社と称した。嵯峨天皇の弘仁九年、全国的に疫病が流行、万民のため諸国にこの神を勧請することを許された。当社は後一条院の御宇、治安三年六月磐井郷の総社として当地へ勧請した。鎌倉将軍頼朝が石橋山に敗れて伊豆浦より白浜へ渡海され、残兵を集めて当神社に籠り祈願、帰陣の後社頭に八幡宮社を御造営(若宮八幡宮という)のうえ当社二天領数多御寄附、その後天文年中、里見刑部之輔義堯公が社殿修造し、社領若干御寄附、慶安二年一二月大猷院殿より朱印高四石寄進、明治九年村社に、昭和五十三年六月千葉県規範神社となる。(「千葉県神社名鑑」より)

岩井神社所蔵の文化財

  • 懸仏と獅子頭(南房総市指定文化財)
  • 浜下屋台(南房総市指定文化財)

岩井神社の懸仏と獅子頭

岩井神社は、平安時代の後一条天皇の時に建立され、はじめは牛頭天王社と呼ばれました。後に明治初年「岩井神社」と改称。現在は「岩井御総社」で、昭和53年6月には「千葉県規範神社」に指定されました。
社宝に、鎌倉時代の「懸仏」(四面)が残っています。「懸仏」というのは、平安時代の中頃、神仏習合の信仰から生まれたものです。柱や壁にかけて礼拝しました。形はだいたい円形で、表面には仏像が彫ってあり、銅や鉄の板でできています。
また「獅子頭」(三頭)があります。これは、昔富山の「ふうり祭」(雨乞い祭)に使われたものです。獅子頭をかぶり、鞨鼓(太鼓)を腹の前に付けて、軽快に舞うものです。これを「鞨鼓獅子舞」といいます。
富山の雨乞い祭も、明治時代の終り頃には行われなくなったようです。(富山町教育委員会)

浜下屋台

浜下屋台の作者は当町の宮大工青木松治郎(城内)である。
この屋台の制作には、三年という長い年月を費やし明治24年(1892)に完成した。その間初代後藤利兵衛義光は青木家に逗留して制作にあたり、八岐の大蛇や竜などを彫刻した。
初代義光は、文化12年(1903)88歳でその生涯を終わった。
初代義光の作品は現在も富山町ほか各地に残っている(富山町教育委員会)

弓道場由来

源頼朝が、治承4年(1180)8月相州石橋山の合戦に敗れ、同国土肥郷真鶴岬を発して安房国へ渡航し、馬集(バセ、富山町高崎)にて馬を集め、不入斗牛頭天皇の社殿に戦勝を祈願した。当寺の安房国は安西、神余、丸、東條、長狭の5氏がほぼ5分し領有支配していたが、長狭氏を除く4氏が敗戦の将頼朝を擁立して幕府創設の基礎を築いた。
建久3年(1192)征夷大将軍になるに及び懐かしの安房国を偲び、不入斗に八幡宮を建立し武士に弓術を奨励した。その後安房国は里見氏により平定されたが、6代義堯は岩井神社修復に際し、境内に矢場を造り弓術を奨励した。
この故事にならい、昭和25年青少年の健全育成と精神修養の場として弓道場を作り、広く一般にも解放し、清く明るい心の滋養を念じ「洗心館」と命名した (岩井神社)


岩井神社の周辺図



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