光勝寺|佐倉市臼井にある時宗寺院

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臼井山光勝寺|臼井四郎常佑が開基

光勝寺の概要

佐倉市臼井にある時宗寺院の光勝寺は、臼井山と号します。光勝寺の草創については不詳ながら、臼井氏の祖臼井常康の菩提寺として、道場作に真言宗として創建したと伝えられます。その後、臼井四郎祐胤が遊行二世他阿眞教上人に帰依し、真言宗だった当寺を改めて時宗寺院として開基、暦応年間(1338-1342)に臼井興胤が圓應寺を創建するまで、臼井氏の菩提寺として庇護を受けていました。六崎組十善講48番、臼井八景の光勝晩鐘、うすい花の寺八ヶ寺の「梅と桜の寺」です。

光勝寺
光勝寺の概要
山号 臼井山
院号 -
寺号 光勝寺
住所 佐倉市臼井1236-1
宗派 時宗
葬儀・墓地 -
備考 -



光勝寺の縁起

光勝寺の草創については不詳ながら、臼井氏の祖臼井常康の菩提寺として、道場作に真言宗として創建したと伝えられます。その後、臼井四郎祐胤が遊行二世他阿眞教上人に帰依し、真言宗だった当寺を改めて時宗寺院として開基、暦応年間(1338-1342)に臼井興胤が圓應寺を創建するまで、臼井氏の菩提寺として庇護を受けていました。臼井城落城後の天正18年(1590)道場作から当地小笹台へ移転しています。当寺の閻魔王像は、往昔閻魔大王の首だけが印旛沼に漂着したもので、廃寺となった末寺青蓮寺で奉安していた像です。

「佐倉市史」による光勝寺の縁起

円応寺(臼井)
相州藤沢清浄光寺末であった。本尊阿弥陀如来。『臼井家由来抜書-史料編纂所蔵』には”臼井四郎常佑代(筆者註:中興興胤の祖父?)”遊行遊行ニ代目真教上人、下総之廻国有之時、帰依して光勝寺を建立し、祐胤迄二代の菩提所也、其節は外城作に有しか共、落城後(天正十八年)今之所へ引く由也”とある。又、当寺の初めは真言宗であったのが時宗に改宗し、白井氏初代の(常康以来祐胤迄四代の興胤以前は四代とも五代とも明らかでない)菩提所であったともいう。当時の境内が中世には現在地でなく、道場作にあったことは、度々引用して来た天正五年の白井郷図に、三ノ門の手前にカラホリ、があり、それに沿って土手があるが、追手門に向って左方でこの土手の終ったところに”光勝寺古ヤシキ”と記入されているので、当初はこの位置にあったことは右記の由来記とも一致する。それが現在地の小笹台に移転したのは、寺内の鎮守愛宕大権現の霊夢によって臼井落城後は移転したというから江戸時代に入っては現在地となった訳である。
前記のように白井氏初期の菩提寺ではあったが、中興の城主白井興胤が暦応年間(一三三九~)に曹洞宗<註:臨済宗>の円応寺を創立して菩提寺としたことは前にも述べたが、これがため光勝寺は臼井氏の加護を従来のように得られず衰えたものであろう。それに本寺である藤沢の清浄光寺も「正中二(一三二五)年、呑海の開山で開創し室町時代初期には一時関東武士の帰依をうけて栄えたが、室町後期になって急速に衰えた(前掲、笠原氏・新行氏)から、光勝寺も同じような途をたどったものであろう。(「佐倉市史」より)

「印旛郡誌」による光勝寺の縁起

光勝寺
臼井村字小笹台即丘陵の中腹にあり臼井山と號す時宗遊行派に屬して相模國清浄光寺末に屬す阿彌陀如来を本尊とす傳へて云ふ寺は往古臼井臺町字道場作にあり臼井氏の祖平常康の其の菩提所として創立する所なりと(今其の遺址を存す)而して五代の城主祐胤遊行二世眞教上人に歸依し改宗して現今の地に遷座せるなりと(元来眞言宗なり)堂中閻魔大王の像を安置す或は云ふ其の頭は小野篁の作なりと往昔此の首印旛沼に漂来りしを時人拾揚げて下体を作り之を臼井村青蓮寺に安置す弘化三年正月近傍火あり寺亦延焼す里人辛して其の頭首を取出すことを得翌四年住持海隣里正甚左衛門と謀り資を募りて下体を作り嘉永元年四月竣功して當寺に安ず寺は境域(四百十四坪官有地第四種)廣からずと雖も印旛沼に臨める丘上にあるを以て風景絶佳臼井八景の一に數へられる寺に古額あり臼井山の三字を彫る傳へて貴人の書なりと云ふ然れども其の何人なるを詳にせず(按るに臼井氏は六代興胤に至り圓應寺を創して菩提所とす興胤以来の木キ墳墓等仝寺にあれども其の以前始祖常胤等の墳墓は之を詳にせず今口碑の傳ふる所によれば光勝寺は正に其の菩提所たりしものの如し然れども寺は永く荒廢して遺物舊記等の更に慧るべきものなし寺に到りて古碑遺跡を探るに寺の南に一大塚ありて形恰も古墳の状の如し因りて思ふ祐胤の寺を此處に移すや或は祖先の墓域を守らしむの意思に出でたるにあらざりしやと若果して然らば是或は常康等の墳墓に非る歟)現今堂宇間口五間奥行四間半河野英聖住職にして檀徒百廿人を有し管轄廳まで四里十八町あり境内佛堂三宇あり即
一、地蔵堂 本尊地蔵大菩薩由緒不詳建物は間口一間奥行一間半
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺
三、觀音堂 本尊は觀音菩薩とす由緒不詳建物間口四尺奥行五尺(寺院明細帳郷土誌)(「印旛郡誌」より)


光勝寺所蔵の文化財

  • 光勝晩鐘(名勝臼井八景)

光勝晩鐘

臼井山光勝寺は臼井氏の祖・常康の菩提寺として臼井台の道場作に建てられた真言宗の寺であった。その後第五代領主臼井祐胤の時世に、一遍上人の弟子・眞教上人が下総へ回国の折、帰依して時宗に改められた。この寺は臼井城が落ちたあと、現在の地に移されたといわれる。現在この境内には、一遍上人のお札くばりの姿像が立っている。光勝寺の本尊は阿弥陀如来であるが、印旛沼の出水時に流れ着いたといわれる閻魔大王の木像が本堂内に安置されている。
その昔、臼井村の夕暮れ時に光勝寺で撞く梵鐘の音は、殷々として湖岸に響きわたり、その鐘声は里の人々に日暮れの時刻を知らせるとともに、村人に心の安らぎを与えていた。今日も日が暮れて光勝寺の鐘が鳴っている。幾歳月を経た古寺であるか、鐘の音だけは今も昔のままに響きわたっている、と歌の勺者は湖畔の夕景を詠んでいる。
寺の参道を下りた成田街道(296号)の三叉路には、百八十年前の古い道標がある。また近くの沼辺には、第六代城主臼井興胤の乳母、阿辰の、不幸な死を哀れむ石碑が立っている。(境内掲示より)

光勝寺の周辺図


参考資料

  • 「佐倉市史」
  • 「印旛郡誌」