宝珠院|佐倉市大佐倉にある真言宗智山派寺院

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大櫻山宝珠院|佐倉五山の筆頭

宝珠院の概要

佐倉市大佐倉にある真言宗智山派寺院の宝珠院は、大櫻山と号します。宝珠院の創建年代等は不詳ながら、永徳3年(1383)に尊宥上人が中興、東寺宝菩提院僧正より最上の二字を加して最上宝珠院称していたといいます。京都・東寺宝菩提院亮恵僧正が永禄元年(1558)当寺に下向、法流を伝授され壇林所となっていました。江戸時代には、幕府より寺領20石の御朱印状を受領、(真言宗の)佐倉五山筆頭として佐倉藩領内真言宗寺院十二ヶ本寺、百二十余ヶ門末を擁していた他、大佐倉八幡神社の別當を勤めていました

宝珠院
宝珠院の概要
山号 大櫻山
院号 宝珠院
寺号 -
住所 佐倉市大佐倉143
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



宝珠院の縁起

宝珠院の創建年代等は不詳ながら、永徳3年(1383)に尊宥上人が中興、東寺宝菩提院僧正より最上の二字を加して最上宝珠院称していたといいます。京都・東寺宝菩提院亮恵僧正が永禄元年(1558)当寺に下向、法流を伝授され壇林所となっていました。江戸時代には、幕府より寺領20石の御朱印状を受領、(真言宗の)佐倉五山筆頭として佐倉藩領内真言宗寺院十二ヶ本寺、百二十余ヶ門末を擁していた他、大佐倉八幡神社の別當を勤めていました。

境内掲示による宝珠院の縁起

大櫻山宝珠院
当山は現在、真言宗智山派(京都・総本山智積院)に属し、本尊は大日如来、宗祖は弘法大師空海である。
開基は不詳であるが、永徳三年(一三八三)尊宥上人の中興と伝えられる。永禄元年(一五五八)京都・東寺宝菩提院亮恵僧正当山に下向され伝法灌頂を開壇、法流を伝授された。これにより古壇林としての格式を得て、後進僧侶教育の中心道場となった。天和三年(一六八三)には京都・醍醐三法院の直末に加えられ、八幡宮別当を兼ね、徳川幕府より御朱印二〇石を拝領、佐倉五山筆頭として佐倉藩領内真言宗寺院十二ヶ本寺、百二十余ヶ門末の寺院が会下におかれていた。
境内の東側から北側には印旛沼が観望される最高地にあり、本佐倉城千葉家の祈願寺としての由緒を残し、佐倉藩堀田家の所縁の寺院として将門山に八町歩の寺領を拝領するなど、重きを置かれた寺院としても知られる。(境内掲示より)

「佐倉市史」による宝珠院の縁起

宝珠院(大佐倉)
真言宗醍醐三宝院末(旧)、本尊大日如来。佐倉五ケ寺の一(後述)。享保九年、堂宇全焼で文書什物も失ったのでその由緒等は詳らかでない。そこで後世の編纂物を参考として次に記す。『佐倉風土記』には、開基は不詳だが永徳三(一三八三)年としているが、これを裏付けるものに「寂上宝珠院 [土へんに缶]菩提院」の扇額が同寺に現存しているが、その裏書に「御筆永徳三発亥年 修補寛政四壬子九月吉日現住宥恩」 と記されている(宥恩は中興開山より当寺一六世の住職)。この額については松裏氏も"永徳三年中興説の根拠かと思はれる"と報告されているが、これは右の年次を確証するものと見てよいと思う。印旛郡誌の筆者は、その出典はあげてないが次のように記している「本尊は大日如来にして真言秘密宗師資相承の主宰にして血脈之より始む、永徳三年東寺宝菩提院僧正より最上の二字を加して最上宝珠院と号す往古より檀林所なり、元亀二年東寺菩提院僧正亮恵当山に下向して伝法謹頂修行す、天和三年三月醍醐三宝院明跡の直末に加へられ、享保九年堂舎全部焼失し云々」と。次に同寺の阿弥陀堂と千葉介勝胤の関係については「阿弥陀知来を本尊とす、行基菩薩の御作にして往昔、江麻三縁山増上寺の一世酉誉上人の持念仏なり、彼の上人千葉氏之苗裔なるにより彼の尊像を千葉家に附属す、爰に明応発丑(二年)の年、千葉家の末葉勝胤公当山に一宇の御堂を建立するに及び、当所八幡宮本地仏と崇め奉り天下泰平五穀成就武運長久を祈らしむ。尚若干の地を当寺に属し、以て長日護摩の資料に備へらる。爾来護摩堂と称したりしが、享保九辰年諸堂宇残らず焼失云々」。
また大師堂のあったことについても次のように記している。「大師堂、弘法大師を本尊とす、昔大同二年印西平賀村花島山曼荼羅院建立の砌、自ら三尺余の座像を彫刻し彼地へ安置し給ふ。年を経て享禄年中、彼の寺零落退転に及、び、天正三年、門葉山田村不動院住鏡心、大師の霊像を当山に移す云々」。なお中世における宝珠院と将門の口ノ宮明神、或は佐倉城主との関係は近世篇で改めて述べる(松裏委員の調査を引用した点が多い)(「佐倉市史」より)

「印旛郡誌」による宝珠院の縁起

宝珠院
大佐倉區字大櫻にあり眞言宗にして大櫻山と號す醍醐三寶院の末派にして大佐倉八幡宮の別當たり佐倉五個寺の一なり(新撰佐倉風土記云凡城中有祈禱事相興修之謂之桜五ヶ寺)本尊は大日如来にして真言秘密宗師資相承の主宰にして血脈之より始む永徳三年東寺寶菩提院僧正より最上の二字を加して最上寶珠院と號す往古より檀林所なり元龜二年東寺菩提院僧正亮惠當山に下向して傳法灌頂修行す天和三年三月醍醐三寶院明跡の直末に加へられ享保九年堂舎全部焼失寶暦元年本尊及客殿等檀徒信者の助力を以て再建す堂宇間口十間奥行七間境内三百十四坪(官有地第四種)あり櫻井照怏を住職とし檀徒二百六十人を有し管轄廳まで六里あり境内佛堂二宇あり即
一、阿彌陀堂。阿彌陀如来を本尊とす行基菩薩の御作にして往昔江麻三縁山増上寺の一世酉譽上人の持念佛なり彼の上人千葉氏之苗裔なるにより彼の尊像を千葉家に附属す爰に明應癸丑の年千葉家の末葉勝胤公當山に一宇の御堂を建立するに及び當所八幡宮本地佛を崇め奉り天下泰平五穀成就武運長久を祈らしむ尚若干の地を當寺に屬し以て長日護摩の資料に備へらる爾来護摩堂と稱したりしが享保九辰年諸堂宇不殘焼失爰に中興開山尊宥より十六世の住宥恩明和五十方担徒の助力を以て再建す建物間口三間半奥行三間半
二、大師堂。弘法大師を本尊とす昔大同三年印西平賀村花島山曼荼羅院建立の砌自ら三尺餘の座像を彫刻し彼地へ安置し給ふ年を經て享禄中彼の寺零落退転に及び天正三年門葉山田村不動院住鏡心大師之靈像を當山に移す次に承應三甲午年堀田加賀守家臣植松庄左衛門吉壽公名を靈斎公と號して御影堂及び靈像建立享保九辰年焼失天明四年担家の助力を以て宥恩代再建明治十三年十月三日大風雨のため毀壊し本尊は阿彌陀へ合す(寺院明細帳郷土誌)
〇(新撰佐倉風土記云)在大佐倉村不詳開基舊風土記曰永徳三年爲中興時而什物多識其月號
(日本名勝地記云)寶珠院は内郷村大字大佐倉に在り大櫻山と號す眞言宗新義派にして永徳三年尊宥上人の開基に係り大日如来を本尊とす此寺も古へは千葉勝胤の崇敬せし所にして朱印二十石を受け八幡社の別當職に當り又堀田氏の佐倉を治むるに至つては将門山の山林八町余を賜り口の宮神社の別當に補せられしが維新後皆上地となれり寺域一万八百五十二坪村内の最高値に位し東に印旛沼を觀望むして風景頗る奇堂宇は去る明治元年十月類焼に罹りて今は唯本堂山門を存するのみなりと雖本堂は間口十間奥行七間に亘り近村希有の一巨宇たり
〇(諸國主斎銘)下總國新義眞言部に二十石印旛郡大佐倉寶珠院と見ゆ(「印旛郡誌」より)


宝珠院の周辺図


参考資料

  • 「佐倉市史」
  • 「印旛郡誌」