海隣寺|佐倉市海隣寺町にある時宗寺院

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千葉山海隣寺|千葉常胤が幕張に開創、千葉貞胤の代に中興

海隣寺の概要

佐倉市海隣寺町にある時宗寺院の海隣寺は、千葉山深廣院と号します。海隣寺は、千葉常胤が治承3年(1179)に海上に光る金色の阿弥陀如来像(月越如来)を発見したことから、文治2年(1186)馬加(幕張)に堂宇を建立し真言宗寺院として創建したと伝えられ、千葉貞胤(1292-1351)の代に、一遍上人の教えに帰依し時宗に改めたといいます。千葉氏が本拠地を千葉亥鼻から本佐倉へ移した際、当寺も酒々井へ移転、千葉介邦胤が天正年間(1573-1592)本佐倉から鹿島台へ本城を移す際に当寺も当地へ移転しています。慶安元年(1649)には江戸幕府より寺領30石の御朱印状を受領していました。

海隣寺
海隣寺の概要
山号 千葉山
院号 深廣院
寺号 海隣寺
住所 佐倉市海隣寺町78
宗派 時宗
葬儀・墓地 -
備考 -



海隣寺の縁起

海隣寺は、千葉常胤が治承3年(1179)に海上に光る金色の阿弥陀如来像(月越如来)を発見したことから、文治2年(1186)馬加(幕張)に堂宇を建立し真言宗寺院として創建したと伝えられ、千葉貞胤(1292-1351)の代に、一遍上人の教えに帰依し時宗に改めたといいます。幕張宝幢寺(旧阿弥陀寺)の縁起では、引き揚げられた仏像は二体あり、一体は阿弥陀寺、もう一体は海隣寺として建立したとしています。千葉氏が本拠地を千葉亥鼻から本佐倉へ移した際、当寺も酒々井へ移転、千葉介邦胤が天正年間(1573-1592)本佐倉から鹿島台へ本城を移す際に当寺も当地へ移転しています。慶安元年(1649)には江戸幕府より寺領30石の御朱印状を受領していました。

「佐倉市史」による海隣寺の縁起

円応寺(海隣寺町)
時宗本山当麻無量光寺末であった。本尊阿弥陀如来。寺伝について『下総旧事-下総志稿底、史料編纂所蔵』には次のように述べている。「海隣寺。千葉山ト号ス鏑木村にあり寺領三拾石(慶安元年八月)、時宗にて相模の当麻山無量光寺に属す本尊は阿弥陀知来、寺の伝へは千葉常胤、治承三年七月廿六日(筆者註、今も此日に開扉あり)子孫を具し海辺に出て月を観しおり海上異光あり、命して網を打しむるに金色の阿弥陀像を得たり(後これを月越如来という)、文治二年に馬加の地に寺を建て其像を安す即ち比寺なり、元は真言の道場なりしが、貞胤一遍上人を帰伏せし後は時宗と(註、千葉貞胤ノ寺ハ海隣寺ナリ等身ノ石碑アリト云へト千葉ニアリシオリノコトナルベシ)他阿上人真教大和尚を中興とす(註、一遍智真ト云伊予河野通信ノ弟ナリト云正応二年八月廿日寂、下略。)馬加康胤千葉胤直の後を受、千葉より本佐倉に移りし折、此地に引寺となりしと云(註、常胤貞胤ノ影像アリ高五六尺許リ貞胤ノ影堂ハ慶長中ニ焼失スト云)。宝永三丙戌歳六月木蓮社攸誉他阿尊皆代と記せり、又千葉氏の遺器あると言い万た見ス」。
この稿本は後に清宮秀堅の『下総旧事考』として刊行されたが、秀堅は右のように宝永三年に当住が記録したものを筆写したものである。郡誌に引用している成田参詣記と日本名勝地誌の記述もその種本は右の宝永三年の記録によったものと見え、前掲の『下総旧事』とほぼ同文である。右の記事によれば常胤が真言宗の一寺を馬加に建て、後、千葉貞胤が一遍上人に帰依して時宗に改宗したというのである。一遍智英(一二三九-一二八九)は自ら全国各地を遊行宣伝し、一所・一寺に止まることがなかったが、鏑木本千葉大系図による千葉貞胤の在世(一二九一-一三五一)とは時代にズレがあるので(千葉大系図の年代も確かなものとはいえないが)或は一遍のあとをうけた真教或は次の智得によって時宗を信仰するようになったものではなかろうかとも考えられよう。
次に海隣寺の移転のことであるが、初め馬加にあったのを千葉氏の本城が千葉の猪鼻から本佐倉に移った文明一六年以後に酒々井に移したものである。いま酒々井町の県道沿いの大谷家(名主を勤めた家で現在も佐倉海隣寺の檀家)の反対側の地に旧海隣寺の址がある。その後、酒々井から現在の佐倉海隣寺に移転したのは千葉介邦胤が、岳父である北条氏政のすすめで本佐倉から鹿島台に本城を移そうと、天正年間に築城工事を再び始めた際同寺を現在地に移したのであろう。邦胤は天正十三年に横死したのであるが、海隣寺が酒々井にあったのは千葉氏の本佐倉城時代とほぼ同じく、約百年ということになろう。同寺の墓地には千葉氏の墓石が多く移されている。(「佐倉市史」より)

「印旛郡誌」による海隣寺の縁起

海隣寺
海隣寺町字於茶屋にあり時宗當麻派にして本山當麻無量光寺末にして阿彌陀如来を本尊とす文治二年中千葉介常胤艸立他阿上人眞教開基其の他由緒年月不詳堂宇間口七間奥行七間庫裏間口十二間奥行五間五分境内八百九十七坪五合五勺(官有地第一種)あり住職は越知信道にして檀徒三十九人を有し管轄廳まで四里三十二町四十間とす(寺院明細帳)
〇(日本名勝地誌云)海隣寺は佐倉町大字鏑木にあり千葉山と號す時宗にして相模の當麻山無量光寺の末派なり寺傳に云治承三年七月廿六日千葉介常胤千葉城に在り其夜一族を携へ海邊に月の昇るを觀んと欲して出遊す時に海上忽ち異光の赫灼たると見侍者をして網を投ぜしめ之を扛ぐれば即ち金色の阿彌陀像なり常胤渇仰の念座ろに生じ之を崇尊すること深し後文治三年に及び千葉郡馬加の地に一寺を創建して其の像を安ず是れ即當寺の建初にして今尚ほ同像を本尊とし名けて月越如来と云ふ然れども初めは眞言の靈場に屬したりしが千葉貞胤の一遍上人に歸依するに至り改めて時宗とし他阿上人を中興の開山と仰ぎたり斯くて千葉城廢せられ馬加の子輔胤千葉氏の後を受け城を佐倉に遷すに至りて此の寺も亦此の地に從りて現今に及ぶと
〇(成田参詣記云)千葉山海隣寺は鏑木村に在り寺領三十石(慶安元年八月)時宗にて相模の當麻山無量光寺末なり本尊は阿彌陀如来寺の傳は千葉介常胤治承三年七月廿六日(今も此日に開扉あり)子孫を具し海邊に出で月を觀しをり海上異光ありければ命して網を打たしむるに金色の阿彌陀像を得たり文治三年に馬加の地に寺を建て其の像を安す即ち此の寺なり元は眞言の道場なりしが貞胤一遍上人を歸依せし後は時宗となり他阿上人眞教大和尚を中興とす(一遍松壽丸智眞は伊豫の河原満廣の二子なりと云ふ正應二年八月廿日示寂す)馬加康胤千葉介胤直の後を受け千葉より本佐倉に移りしおり此の地に引寺となりしと云ふ(常胤貞胤の影像あり高五寸許り貞胤の影堂は慶長に焼失すと云)
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〇(下總國舊事考云)海隣寺在鏑木村(舊在馬加村)文治二年千葉介常胤創建馬加地貞胤時改宗家爲時宗以僧他阿眞教爲主後馬加康胤移于今地時宗隷相模無量光寺寺領三十石(天正十九年辛卯十一月付)(「印旛郡誌」より)


「稿本千葉縣誌」による海隣寺の縁起

千葉山深廣院海隣寺
同郡同上(印旛郡舊印旛郡)佐倉町大字佐倉海隣寺字於茶屋に在り、境内八百四十九坪、時宗なり。寺傳に云ふ、治承三年七月二十六日千葉常胤子族を率ゐて月を海濱に觀、網して金像阿彌陀佛を得たり、由りて文治二年十月一寺を千葉郡馬加村に創建し、海隣寺と號し、阿彌陀佛を置く。初め眞言宗なりしが、其の裔千葉貞胤時宗を信じ、改宗して、相模當麻村無量光寺第二世僧眞教に請ひて中興開山となす、貞胤の子氏胤堂宇を造營す、千葉輔胤佐倉に移るに及び亦、之を将門山の邊に移し、後今の地に移せりと。慶安元年八月徳川氏寺領三十石を付す、本尊阿彌陀銅像長さ五寸五分許、是を海上月越如来と稱す、寺に千葉常胤・貞胤装束の木像を蔵す、各長さ七寸一分許、鐵兜一あり太田資忠の着せし所にして、資忠戰死の時千葉孝胤の臣某之を得て此に納めたりと云ふ、毎歳八月二十六日阿彌陀の縁日と稱し老少群集す。(「稿本千葉縣誌」より)

「千葉縣千葉郡誌」による海隣寺の縁起

海隣寺(佐倉)
寺傳に言ふ、治承三年七月廿六日千葉介常胤千葉城に在り、其の夜一族を携へ海邊に月の昇るを觀んと欲し出遊す、時海より忽ち異光の赫灼たるを見る。侍者をして網を投ぜしめ之をあぐれば則ち金色阿彌陀像なり。常胤渇仰の念坐ろに生じ之を常信すること深し、後文治二年に及び千葉郡馬加三寺を創建して其の像を安置す。是即ち當寺の初にして、今尚同像を本尊として名けて月越如来といふ。然れども初めは眞言の靈場にぞくしたりしが、千葉貞胤の一遍上人に歸依するに至り、改めて時宗とし他阿上人を中興の開山と仰ぎたり。斯にて千葉城廢せられ馬加康胤の子輔胤千葉氏の後を承け城を佐倉に遷すに至りて此寺も亦此地に徒り、以て現今に及びたるものにして佐倉町大字鏑木に在り千葉山と號す。時宗にして相模の當麻山無量光寺の末派なり。(相模高座郡麻溝村大字當麻)(「千葉縣千葉郡誌」より)

海隣寺の周辺図


参考資料

  • 「佐倉市史」
  • 「印旛郡誌」
  • 「稿本千葉縣誌」
  • 「千葉縣千葉郡誌」