善光寺|松戸市五香にある浄土宗寺院

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靈鷲山善光寺|東葛印旛大師

善光寺の概要

浄土宗寺院の善光寺は、靈鷲山源福院と号します。善光寺は、明治維新後に小金牧の開発が始まった際、小金東漸寺の静譽大康上人が新開地への新寺建立を計画、茶園工場を営んでいた田中佐治兵衛氏から土地の寄進を受けて五香説教所を開設、静譽大康上人入寂後に遺志を継いだ佛陀禅阿辯榮上人が説教所に住み込み、明治24年に本堂を完成させて開山したといいます。佛陀禅阿辯榮上人は、安政6年(1860)柏市鷲野谷で生誕、鷲野谷医王寺で得度、明治27年にはインド渡航も果たした名僧です。東葛印旛大師68番です。

善光寺
善光寺の概要
山号 靈鷲山
院号 源福院
寺号 善光寺
住所 松戸市五香1-3-2
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



善光寺の縁起

善光寺は、明治維新後に小金牧の開発が始まった際、小金東漸寺の静譽大康上人が新開地への新寺建立を計画、茶園工場を営んでいた田中佐治兵衛氏から土地の寄進を受けて五香説教所を開設、静譽大康上人入寂後に遺志を継いだ佛陀禅阿辯榮上人が説教所に住み込み、明治24年に本堂を完成させて開山したといいます。佛陀禅阿辯榮上人は、安政6年(1860)柏市鷲野谷で生誕、鷲野谷医王寺で得度、明治27年にはインド渡航も果たした名僧です。

「松戸のお寺」による善光寺の縁起

浄土宗霊鷲山善光寺
当山は明治二十四年(一八九一)山崎弁栄上人によって創建されたお寺です。正式名は「霊鷲山源福院善光寺」です。
当山の一帯は、もと小金ヶ原という広大な牧野で、江戸時代は将軍家の狩場となっていました。明治維新後この地は開墾されて、五香六実と称されるようになりました。
小金の東漸寺の大田に大康上人は、各地から開墾のために集まった入植者の心の支えとして、新寺建立を計画しました。五香六実の開墾地で茶園工場を営んでいた田中佐治兵衛氏が五香を引き揚げる際に、一部の土地が寄進され、ここを五香説教所としました。
師匠大康上人遷化の後、その遺志を受け継ぎ、単身山崎弁栄上人が説教所に移り住みました。できるだけ多くの仏縁を結んで頂くことを願い、一厘講と名付けて勧進しながら、ようやく明治二十四年に本堂が落成しました。
善光寺の名は増上寺の便誉僧正が一文銭を集めた鋳像の善光寺如来(一光三尊)をご本尊として迎え祀った事によります。
境内には弁栄上人が印度から持ち帰ったと言われる菩提樹があり、6月には淡黄色の美しい花を咲かせます。(「松戸のお寺」より)

「千葉県浄土宗寺院誌」による善光寺の縁起

当山の一帯は、もと小金ヶ原という曠大な牧野であったが、明治維新の際、開墾されて新開地となった。小金東漸寺の碩学静譽大康上人は、この地に寺院がなく新開地の住民の仏法に潤う機会のないのを嘆いて、新寺建立を念願されていたが、在世中には実現できず入寂されたので、その師意を継承された佛陀禅阿辯榮上人は、単身この地に止錫して幾多の困難に堪え、ついに明治二四年、新寺を建立し「靈鷲山善光寺」と称した。
以来、辯榮上人は寧日なき巡教精進を重ねられ、国内はもとより朝鮮・満州にまで光明主義を明示して、大乗仏教精神を現代に生かされた。今日、財団法人光明修養会として全国的な組織のもとに光明主義が実践されている。(「千葉県浄土宗寺院誌」より)


善光寺の周辺図


参考資料

  • 「松戸のお寺」
  • 「千葉県浄土宗寺院誌」