宝海山光圓寺|初富開拓後の明治後期に門徒の要請で移転
光圓寺の概要
鎌ケ谷市北初富にある真宗大谷派寺院の光圓寺は、宝海山と号します。光圓寺は、明治維新後に初富を開拓した浄土真宗門徒の要請により、常総市(旧下総国域)にあった当寺を明治37年(或いは明治41年)に移転させたといいます。初富の入植者の多くは農業未経験で、かつ初富が火山灰台地だったことから、開墾に苦労したそうです。開拓者の子弟が、祖先を忘れないようにと紀念講を結成、開墾50年を記念して立てられた紀念講碑は、鎌ケ谷市文化財に指定されています。
山号 | 宝海山 |
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院号 | - |
寺号 | 光圓寺 |
住所 | 鎌ケ谷市北初富6-1 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光圓寺の縁起
光圓寺は、明治維新後に初富を開拓した浄土真宗門徒の要請により、常総市(旧下総国域)にあった当寺を明治37年(或いは明治41年)に移転させたといいます。初富の入植者の多くは農業未経験で、かつ初富が火山灰台地だったことから、開墾に苦労したそうです。開拓者の子弟が、祖先を忘れないようにと紀念講を結成、開墾50年を記念して立てられた紀念講碑は、鎌ケ谷市文化財に指定されています。
「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による光圓寺の縁起
光円寺
浄土真宗大谷派。京都東本願寺末。初富字四辻(現北初富六番)に所在する。本尊は阿弥陀仏。本寺は明治四十年(一九〇七)、当時の茨城県豊岡村(現水海道市)からこの地に移転したものである。初富の一部が檀家である。(「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」より)
「鎌ケ谷市史別巻」による光圓寺の縁起
初富の光園寺(北初富所在)は浄土真宗大谷派の寺院で、東本願寺(京都市下京区)の末寺である。元は常陸国報思寺村(現茨城県水海道市)にあったが、初富に居住した浄土真宗門徒の人たちの懇請により、当地へ移転した。その年代は、「宝海山光圓寺記録」(光圓寺蔵)によれば明治三十七年のことであるが、「寺院明細帳」には、「明治四十年四月二十三日茨城県庁ニ於テ移転許可、明治四十一年一月十二日当所ニ移転ス」とある。檀家は初富の一部である。(「鎌ケ谷市史別巻 」より)
光圓寺所蔵の文化財
- 土地紀念講碑(鎌ケ谷市指定文化財)
土地紀念講碑
明治政府の殖産興業の一環である初富開墾は、入植者のほとんどが農業未経験者であったことと、耕地が火山灰台地であったことから非常に困難なものであったと伝えられています。
その開拓者の子弟が集まり祖先の生活を忘れないようにと大正から昭和にかけて、紀念講を結成し、芋がゆをすすって祖先をしのび、共に励まし合い、豊かな農地への発展を願い、これを成し遂げて来ました。
この土地紀念講碑は、開墾50年を記念して大正7年11月に子孫の人たちが建立したものです。(鎌ケ谷市教育委員会掲示より)
光圓寺の周辺図
参考資料
- 鎌ヶ谷市史資料編(民俗)
- 鎌ケ谷市史別巻