観音寺|印西市浦部にある天台宗寺院

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日照山観音寺|いんざい七福神の弁財天、印西大師八十八所

観音寺の概要

印西市浦部にある天台宗寺院の観音寺は、日照山慧光院と号します。観音寺の創建年代等は不詳ながら、「印旛郡誌」では慶安元年(1648)の創建とされ、また(関東天台宗の多くの寺院で開祖としている)慈覚大師円仁の創建とも伝えています。境内より「観音院」と刻された応安6年(1373)銘の鰐口が明治18年に発掘されたと「印旛郡誌」に記載されていることから、慶安元年(1648)は法流開山又は中興開山と思われます。観音寺辨財天鋳銅鰐口・弥陀一尊武蔵板碑は印西市有形文化財に指定されています。いんざい七福神の弁財天、印西大師八十八所16番です。

観音寺
観音寺の概要
山号 日照山
院号 慧光院
寺号 観音寺
住所 印西市浦部1978
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



観音寺の縁起

観音寺の創建年代等は不詳ながら、「印旛郡誌」では慶安元年(1648)の創建とされ、また(関東天台宗の多くの寺院で開祖としている)慈覚大師円仁の創建とも伝えています。境内より「観音院」と刻された応安6年(1373)銘の鰐口が明治18年に発掘されたと「印旛郡誌」に記載されていることから、慶安元年(1648)は法流開山又は中興開山と思われます。

「印旛郡誌」による観音寺の縁起

觀音寺
浦部村字寺下にあり天台宗延暦寺派にして中本寺泉倉寺末なり阿彌陀如来を本尊とす慶安元年八月の創立にして堂宇間口六間半奥行八間半境内七百七十六坪(民有地第一種)あり住職は服部良詮にして檀徒六百三十七人を有し管轄廳まで七里三十町とす境内佛堂一宇あり即
一、阿彌陀堂 阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳建物間口四間半奥行八間半なり(寺院明細帳)
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觀音堂(觀音寺持)
浦部村字寺下にあり觀音寺持にして十一面觀世音を本尊とす慶安元子年八月一日の建立にして堂宇間口七間半奥行七間半境内一千四百五十五坪(民有地第一種)あり住職は服部良詮にして信徒九百十五人を有し管轄廳まで七里三十町とす境内佛堂五宇あり即
一、閻魔堂 阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳建物間口六間半奥行四間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口一間半奥行五尺
三、地蔵堂 地蔵菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間
四、辨天堂 辨財天を本尊とす由緒不詳建物間口九尺奥行五尺
五、仁王門 仁王尊を本尊とす由緒不詳建物間口四尺奥行三尺(佛堂明細帳)
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天神鰐口
明治十八年同村小手理右衛門觀音寺境内を穿掘せしに地中より鰐口一個を掘出し之をみがき見るに周圍に「應安六年・・・觀音院」又「埴生西浦部天神鰐口也」とありて中央に「奉懸」の二字を刻す之を開祖より按するに凡三百年の差あり (「印旛郡誌」より)


観音寺所蔵の文化財

  • 木造延命地蔵菩薩座像(市指定有形文化財)
  • 弥陀一尊武蔵板碑(市指定有形文化財)

観音寺辨財天鋳銅鰐口

浦部観音寺に弁財天が祭祀されています。
弁財天は七福神の一神であり、福徳賦与の神として庶民に広く信仰され親しまれているものです。この弁財天に「鰐口」があり、表に奉納者 白井の庄(現佐倉市)岩富村白井加右衛門の記銘と、延宝八年庚申(一六八〇)の銘があり、江戸時代上期のものとしては珍しく原形を保っています。
口伝によれば、白井加右衛門には子供がなく悲歎にあけくれていたが、ある夜印旛沼より竜女現われて「浦辺の弁財天に祈願せよ、さすれば子宝に恵まれん」とのお告げを受け夫婦ともに日参したところ、心願成就して玉の如き童女に恵まれたことに感謝して奉納したのがこの「鰐口」であるといわれています。
また、浦部村の領主、上杉伊勢守藤原長之公が弁財天を深く信仰し、上野不忍池になぞらえて現在の所に遷座したものと伝えられています。なお現在保存されている「弁財天」の扁額は上杉伊勢守藤原公の書とされています。(印西市教育委員会掲示より)

弥陀一尊武蔵板碑

板碑は仏を供養するための石造の卒塔婆で鎌倉時代から室町時代にかけて作られたものです。板碑には下総型と武蔵型とがあり、千葉県では東葛飾郡、印旛郡地方を中心に秩父産の緑泥片岩で作られた武蔵型が多く分布しています。
この板碑は武蔵型で頂部は三角形、その上部には横に二線がある。天蓋も鮮明に刻まれており、弥陀一尊の種子が荘厳体で彫り込まれていて一部に金泥の痕跡が残っています。また蓮華の花弁が上弁と下弁とに優美に配置され、特に建治元年十二月(一ニ七五)の筆跡は鎌倉時代の書法としても芸術的で味わいがあります。
建造年月日も明らかで北総地区においては最も古いもので貴重な存在であります。(印西市教育委員会掲示より)

観音寺の周辺図


参考資料

  • 印旛郡誌