松虫寺|印西市松虫にある真言宗豊山派寺院

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摩尼珠山松虫寺|松虫姫ゆかりの七仏薬師、印西大師八十八所

松虫寺の概要

印西市松虫にある真言宗豊山派寺院の松虫寺は、摩尼珠山医王院と号します。松虫寺は、聖武天皇の皇女松虫姫(不破内親王)が罹患した際、夢告により当地に下向し薬師仏に祈願して快癒したことから、聖武天皇の勅命により行基菩薩が天平17年(745)に七仏薬師を刻して創建したと伝えられます。聖武天皇より功徳田十二町を下賜され、本坊の他多数の堂舎を擁していたとされ、寺名に松虫寺、地名に松虫村、字名に十二町など、数多くの伝承が残されています。当初三論宗として建立されたものの、その後天台宗に、江戸期に入り真言宗寺院となっています。薬師堂本尊の木像薬師如来坐像一軀・木像薬師如来立像六軀(七仏薬師)は国重要文化財に、鋳銅孔雀文磐一面は県有形文化財に、鋳銅鰐口は市文化財にそれぞれ指定されています。印西大師八十八所75番です。

松虫寺
松虫寺の概要
山号 摩尼珠山
院号 医王院
寺号 松虫寺
住所 印西市松虫7
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



松虫寺の縁起

松虫寺は、聖武天皇の皇女松虫姫(不破内親王)が罹患した際、夢告により当地に下向し薬師仏に祈願して快癒したことから、聖武天皇の勅命により行基菩薩が天平17年(745)に七仏薬師を刻して創建したと伝えられます。聖武天皇より功徳田十二町を下賜され、本坊の他多数の堂舎を擁していたとされ、寺名に松虫寺、地名に松虫村、字名に十二町など、数多くの伝承が残されています。当初三論宗として建立されたものの、その後天台宗に、江戸期に入り真言宗寺院となっています。

境内石碑による松虫寺の縁起

松虫寺の概要
松虫寺は奈良時代、聖武天皇の天平十七年(七四五)僧行基の開創と伝えられ、始め三論宗、のち、天台宗、そして、真言宗に所属し今日に至っている。寺伝によれば、聖武天皇の皇女松虫姫、(不破内親王)が重い病に患られた時、不思議な夢のお告により、下総に下向され、萩原郷に祀られていた薬師仏を祈り、重患が平癒したので、天皇は、行基に命じて七仏薬師を刻み一寺を建立し、姫の御名をとって松虫寺と名付けられたと言う。
現在の本尊、七仏薬師如来は榧材の一木造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和三十四年、国の重要文化財に指定された。
南面する仁王門、薬師堂は、江戸時代、享保三年に改築されたもの、山号額は儒者、佐々木文山、薬師堂の扁額は、釈雲照の染筆である。
西面する本堂は、寛政十一年の建立で、阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をまつる。
薬師堂の裏手の松虫姫御廟は、御遺言により分骨埋葬されたものと伝えている。(境内石碑より)

「印旛郡誌」による松虫寺の縁起

松虫寺
松虫村字堂前にあり眞言宗にして中本寺實蔵院末なり七佛薬師如来を本尊とす夫れ本尊薬師如来は往古萩原郷出戸に安置す其の原由は詳ならず然り而して當地へ本堂創立の所以は薬師畧縁起尚郷里の口碑に曰く人皇四十五代聖武皇帝の御宇天平年中の頃第三皇女松虫姫御發病然るに該症最も輕からず時に天平十七年二月七日の夜當薬師如来夢中に告く之に依て深く薬師を念じ玉ふ該疾速に平復す然れば聖武天皇大に薬師の利驗を尊崇し形像六軀を彫刻し七佛薬師となさんと僧行基に勅命す行基僧正命を奉じて自ら形軀を彫刻す帝之を當地へ納む且本堂僧坊御建立あつて始めて萩原郷出戸を改めて松虫村と名く寺を松虫寺に號す又本尊へ功徳田十二町下賜わる而して當寺の動きも昔時は結構荘厳なるものと見ゆ本坊の外に數多附屬の寺院之あり由にて近傍の廢跡他十二ヶ所これあり代るに世移り時變じて右功徳田の如きも現時村民の所有に屬すと雖舊號今に存せり堂宇間口四間奥行三間客殿間口五間三尺奥行七間四尺庫裡間口九間奥行五間三尺鐘樓間口二間奥行二間仁王門間口二間奥行三間三尺門間口二間奥行二間物置間口二間奥行四間境内一千九百卅四坪(官有地第四種)あり住職は大野快寶にして檀徒百二十九人を有し管轄廳まで六里二十一町十二間あり境内佛堂一宇あり即
一、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口五尺奥行三尺
また庵室一宇あり即
一、大日庵 阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳間口三間半奥行五間なり(寺院明細帳)
〇(住職大野氏云)往昔三論宗なりしが徳川幕府に至り新義眞言宗となる摩尼珠山松虫寺と稱す本尊七佛薬師如来は往昔萩原郷の出戸に安置しありしが人皇第四十五代聖武天皇の御宇天平年中第三皇女松虫姫御年十四歳にして難病に罹らせ給ふ不思議なる哉當本尊の夢告によりて此地に来りて願望丹精をこらし給ふに病速に平癒すよりて堂塔僧坊等の御建立あり剰さへ傳燈料として水田十二石程下賜せらる其の地を字十二町と云ふこれなり寺號村名皆皇女の御名をとつて名く三論宗なりし頃の開基は行基菩薩とす口碑伝ふ松虫皇女は人皇第四十五代聖武帝の第三皇女にして御諱は不破内親王と申し奉る御年十四難病にかからせ給ひしに奇なるかな天平十七年二月七日夜當本尊七佛薬師如来の夢告によりて行基僧正花井權太夫の御供をして御下り給ふ後に御名を松虫とあらためさせ給ふと傳ふ御侍の姥は死して現今の姥塚に葬る御乗牛は池にひそむ其の池野名を牛むぐりと云ふ稚子等の居りし處をば今も稚子作と呼ぶ本尊舊敷地は難病患者の群集したるを以てかつたいざくと曰ふ其の下に井あり皇女の沐浴の井なりと今田面の傍に保護せり如何なる旱天にも清水湧出す其の山上に皇女が本尊に捧げたる福壽草ありしが惜哉現今開墾のために其の草なきに至らん昔傳燈料公免の田畑十二町は現今民有に歸すれども字十二町はこれなり元禄年中皇女宮別當勝寶院より出火す折しも大南風にして寶庫まばたく間に焼失すこれより由緒寶物等悉く烏有に屬すと云ふ松虫寺の境内の南方に保喉芋と云ふ芋あり之は皇女の飢餓の用意などに御持ちになりしものにてこの芋は咽喉の腫れたるに効あり今區民之を「ホドイモ」と云ふ銀杏老樹は皇女の御杖をさしたるものにて今の靈木は二代目なりと云ふこの靈基女人の乳不足なるものは煎じて服用せば自然に乳不足なし御廟の貝多羅木は行基僧正祈願の折薬師の本願經を寫したるものにして後に皇女の廟に埋めて皇女の冥福を弔ひしに不思議なるかな其の枯葉より芽生して大木となりぬ現今の靈木は二代目なりと云ふこの木の葉は薬なりとて病によろしと本尊の全盛の時は附属寺院六坊ありて今其の寺跡をよぶもの六ありと
〇(新編佐倉風土記云)在松虫村天平年中行基開之安薬師金像云舊風土記曰傳在昔松虫姫曰聖武帝第三皇女或曰宮女病癩来之于此自衰祈薬師佛而得癒遂留修焉今之竭多伊谷乃其處云俗謂癩爲竭多伊寺後有墳又有祠以祭焉寺門之二王瑞慶所作舊有嘉元中所鑄鐘天和二年革造之云 (「印旛郡誌」より)

「稿本千葉縣誌」による松虫寺の縁起

松虫寺
同郡同上(印旛郡舊印旛郡)六合村大字松蟲字堂前に在り、境内千九百三十四坪、創建詳ならず、或は云ふ、天平中なりと。薬師堂あり、七佛薬師と稱す、像は天平十七年三月僧行基に勅して白檀を以て薬師佛六體を刻し金像を其の腹中に納めしめ給ひしものなりと云ふ。今大座像一軀あり、左右に十二神将像を置く。 (「稿本千葉縣誌」より)


松虫寺所蔵の文化財

  • 木像薬師如来坐像一軀・木像薬師如来立像六軀(重要文化財)
  • 鋳銅孔雀文磐一面(千葉県指定有形文化財)
  • 鋳銅鰐口(印西市指定文化財)

木造延命地蔵菩薩座像

坐像を中心に立像が三軀ずつ左右両側にならぶいわゆる七仏薬師とよばれる形制で、平安時代後期の造像です。
像高は中尊坐像が五十四・三センチ、六軀の立像はいずれも約三十八センチほどの小像です。みなカヤ材の一木造り(中尊のみ三道下で頭・体を割りはぐ。)で、彫眼、くちびるに朱をつけ、眉や黒目を墨で描いているほかは素地のままです。
各像とも総じて厚く肉取りし、衲衣はえり元広くゆったりと表わし、立像の腹部から両脚にそうY字形の衣ひだも簡潔に処理して、小像ながら、よく量感を出しています。
古様の七仏薬師は全国的にみても作例が少なく、貴重なものです。(千葉県教育委員会・印西市教育委員会掲示より)

鋳銅孔雀文磐一面

肩幅二十一・三センチ、絋二十三・二センチ、総高十四センチ、撞座径五・七センチの鋳造製である。
縁は菱形で内側に子縁をともない、左右の縦線はわずかに反りを見せている。文様は表裏同文で蓮華文の撞座を中心に翼を張り、尾を下げる孔雀を相対して鋳出している。
磐はもともと中国の古い楽器で、木製の磐架につるして、僧の脇に置き勤行の際、撞座を打ちならす法具である。
無銘ではあるが、様式手法により製作年代は南北朝時代と推定され、本県内の他遺存例に比して作成も良好である。(千葉県教育委員会・印西市教育委員会掲示より)

鋳銅鰐口

安土桃山期のもので、径三十六センチメートル、厚さ十一センチメートル、重量七・九キログラム、材質は青銅製である。中央には複弁八葉蓮華文が陽鋳され、外縁部には
「天正拾三年乙酉二月廿八日 松虫寺別當栄澄 鵜澤信濃守 敏信(花押)羔使」
との銘文がある。この銘文から、一五八六年に鋳造されたものであることが窺え、また完全な形で保存されている事から貴重な資料といえる。鰐口は、仏教から生まれたもののようであるが、神仏習合思想の影響で神社、寺院にも用いいられるようになり、天長地久、息災延命等諸願成就祈願のお参りの時に古くから打ち鳴らされてきたものである。(印西市教育委員会掲示より)

松虫寺の周辺図


参考資料

  • 印旛郡誌