遍照院|市原市海保にある真言宗豊山派寺院

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遍照院|市原市海保にある真言宗豊山派寺院

遍照院の概要

市原市海保にある真言宗豊山派寺院の遍照院は、発教山学道寺と号します。遍照院は、弘仁年間(810-824)に弘法大師が開基となり創建したと伝えられ、その後衰廃した当寺を佐々木盛綱の子で大本山醍醐寺住職を退いた僧房玄上人が、当地の領主佐々木盛唯を頼り応長元年(1311)に再興、中本山格寺院だったといいます。文和元年(1352)に佐々木家が滅亡し、当寺も衰退しましたが、摂家九條大納言常定の信仰を得て再興、末寺15ヶ寺・4庵室を有する寺院となりましたが、織田信長に寺領を奪われ、また火災に罹災し焼失、慶長7年(1602)代官小川七郎左衛門等の緒力により再建、元文5年(1740)には常法談林所(僧侶育成所)となっていました。市原郡八十八ヶ所霊場51番、上総八十八ヶ所霊場49番、新上総国三十三観音霊場28番です。

遍照院
遍照院の概要
山号 発教山
院号 遍照院
寺号 学道寺
住所 市原市海保769
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



遍照院の縁起

遍照院は、弘仁年間(810-824)に弘法大師が開基となり創建したと伝えられ、その後衰廃した当寺を佐々木盛綱の子で大本山醍醐寺住職を退いた僧房玄上人が、当地の領主佐々木盛唯を頼り応長元年(1311)に再興、中本山格寺院だったといいます。文和元年(1352)に佐々木家が滅亡し、当寺も衰退しましたが、摂家九條大納言常定の信仰を得て再興、末寺15ヶ寺・4庵室を有する寺院となりましたが、織田信長に寺領を奪われ、また火災に罹災し焼失、慶長7年(1602)代官小川七郎左衛門等の緒力により再建、元文5年(1740)には常法談林所(僧侶育成所)となっていました。

「市原市史」による遍照院の縁起

遍照院
弘法大師の開基、応長元年(一三一一)十二月僧房玄の創建という。房玄は佐々木盛綱の子供という。領主佐々木家の滅亡以来寺領を失い衰微した。延元年中、摂家九条家の信仰で領田三町五段の寄進があり祈願寺と定められた。元亀年中織田信長のため寺禄を奪われる。文禄二年(一五九三)焼失、慶長七年(一六〇二)代官小川七郎左衛門等有志によって再建された。慶長七季卯月十八日銘の棟札がある。石段の最下段の左右に石段造立の由来を刻した明和三年(一七六六)造立の角石が三基建てられている。(「市原市史」より)

「市原郡誌」による遍照院の縁起

遍照院
東海村海保にありて新義真言宗豊山派に屬し常法檀林中本寺たり、其創設は嵯峨天皇弘仁年弘法大師の開基にして鎮護國家の密教道場たりき、悲哉後數百年を經て、法燈消滅の不運に至る、人皇五十九代宇多天皇の後胤佐々木盛綱の男僧房玄上人は事教二相の學博き善知識にして老後當郷の領主佐々木盛唯と其兄弟の縁を以て山城國大本山醍醐寺住職辞任の後東下し爰に佐々木家と協力し當寺を再興し即ち該寺の直末として且つ中本山の寺格を具備するに至らしむ、佐々木氏は當時海保切生に城郭を有せられ若干の寺領を賜ふと、文和元年佐々木家滅び随つて寺領を失ひ一時衰運に傾けり次いで後光嚴帝の延元年中御攝家月ノ輪九條大納言常定卿は當時第五世後海師の大徳を深く信仰ありて領田三町五段を寄附し祈願寺と定めらる、茲に於て再興の緒につき末寺十五ヶ所堂庵四ヶ所を有し當國の巨刹として繁榮を極む、後正親町帝の元亀年中織田信長のため寺禄を奪はれたるを以て第十五世貞叟大徳の時檀徒より山林と田畑の寄附を受けて永護の資に備ふ、折しも後陽成帝の文禄二年殿堂坊舎悉く焼失せり、時に第二十五世秀海大徳は當時の代官小川七郎左衛門外有力者と謀り慶長七年四月十八日竣工輪奐の美一國を壓す現存の本堂これなり、後元文五年第三十一世良祐師は本宗の教意擴張のため、常法談林所たるの許可を得て毎年四月所化の僧侶を招集し宗意を論談研究せしむ、然るに明治八年大中小の學林の設ありて中止す、明治三十年古義新義の教風異なるを以て、協議の上大本山醍醐寺を離れ總本山豊山派長谷寺の末となる。目下寺有田畑山林六町歩を有し境内官有地千六十坪あり、本堂其他建坪八十餘坪を有す。(市原郡教育會編纂「市原郡誌」より)


遍照院の周辺図


参考資料

  • 「市原市史」
  • 「市原郡誌」