高瀧神社|市原市高滝の神社

猫の足あとによる千葉県寺社案内

高瀧神社|延喜式神名帳所載の式内社

高瀧神社の概要

高瀧神社は、市原市高滝にある神社です。高瀧神社は、日本武尊東征の際に志那都比古命の妃(島穴神社の祭神)である志那斗瓣命を祀り創建、延喜式神名帳にも海上郡二座(並小)高瀧神社と記載されている古社です。承平・天慶の乱の際には勅使が剱を奉納、源頼朝の挙兵の際にも社前に勅し、流鏑馬神事が始まったといい、明治6年には県社に列格していました。

高瀧神社
高瀧神社の概要
社号 高瀧神社
祭神 瓊瓊杵命、玉依姫命、別雷命
相殿 -
境内社 神明宮、八坂神社、松尾神社、稲荷神社、大己貴神社、他6社
例祭日 4月中酉日・10月中酉日前後の日曜日
住所 市原市高滝2278
備考 旧県社



高瀧神社の由緒

高瀧神社は、白鳳元年(650)に瓊瓊杵尊を祀り高滝神と称して創建、貞観10年(868)には神階従五位下を授与された古社です。承安年間(1171-1175)には山城国加茂の神を合祀、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治13年には県社に昇格していました。

境内掲示による高瀧神社の由緒

当社は三代実録に貞観十年(八六八年)九月十七日上総国正六位上高滝神從五位下とあり白鳳二年八月鎮座された。古くより安産及び稚児の安健生育を祈るに神験いちじるしく底なし袋の信仰は当社独得のものとなった。
天正十九年に徳川家康より十石の朱印地の寄進があった。
明治六年郷社に同十三年県社に列せられ現在二千二百余戸の氏神として信仰をあつめて居る。現存する社殿は享保十二年(一七ニ七年)再建されたものである。(境内掲示より)

「市原市史」による高瀧神社の由緒

国史現在社、貞観十年(八六八)九月十七日従五位下となる(別雷命玉依姫尊)。白鳳元年八月瓊瓊杵尊を祀り高滝神と称し、承安年中山城国加茂の神を遷し合祀し加茂大明神と称し、享保七年(一七二二)賀茂大神宮と改めた。明治十三年(一八八〇)県社高滝神社となる。天正十六年(一五八八)里見義康が除地高一七石寄進。天正十九年(一五九一)徳川家康朱印高一〇石寄進。文永五年(一二六八)、宝永元年(一七〇四)、享保七年(一七二二)の伝記、勧進帳が残っている。現社殿は享保十二年(一七二七)の再建であることが棟木の墨書銘と禰宜家文書(市内高滝小幡重康家文書)とによって証される。正徳四年(一七一四)の「神事の掟」あり。祭礼は四月十月の中の酉の日(文永の縁起によると、悪疫流行の時に酉の日に祭りを行ったら病魔退散したことによって以後酉の日を祭日に決めたという)。十月、秋祭りには神輿三基が出る。近世には五三ヵ村の鎮守で氏子数二五〇〇戸あった。神社の森は県の天然記念物に指定されなお昭和五十五年(一九八〇)社殿・末社が市指定文化財となった。寛延元年(一七四八)造立狛犬、宝暦九年(一七五九)造立石鳥居、文化八年(一八二一)大石灯籠一対其他がある。(「市原市史」より)

千葉県神社名鑑による高瀧神社の由緒

第四〇代天武天皇白鳳二癸酉日、山城国賀茂の両社を祀ったのが創祀とされている。以来安産・子育・縁結びの神として広く信仰されてきた。宝暦七年には、徳川九代将軍の祈願所となり、神領一〇石とともに厚い信仰を受けていた。その後、明治六年郷社、同一三年県社に列せられ、約二,二〇〇戸の氏神として御神徳を高めている。(千葉県神社名鑑より)


高瀧神社所蔵の文化財

  • 高瀧神社社叢(千葉県指定天然記念物)
  • 高瀧神社社殿及び末社(市原市指定有形文化財)

高瀧神社の周辺図