君塚白幡神社|市原市君塚の神社

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君塚白幡神社|市原市君塚の神社

君塚白幡神社の概要

君塚白幡神社は、市原市君塚にある神社です。君塚白幡神社は、日本武尊が東征に際して当地に休憩、塚に杖を立て置いたことから、「武の塚神」と称され、また地名を武の郷と称されたと伝えます。その後、源頼朝が石橋山の合戦で敗れて後当地へ休憩、当地の謂れを聞いた頼朝は白幡を奉納し、白幡神社と称されるようになったといいます。また当地で千葉介常胤の使者を迎えることになり、「喜び見ん塚」と喜んだことから、君塚(喜見塚)の地名が起こったとされています。

白幡神社
君塚白幡神社の概要
社号 白幡神社
祭神 日本武尊
相殿 -
境内社 -
例祭日 10月9日
住所 市原市君塚5-24-15
備考 -



君塚白幡神社の由緒

君塚白幡神社は、日本武尊が東征に際して当地に休憩、塚に杖を立て置いたことから、「武の塚神」と称され、また地名を武の郷と称されたと伝えます。その後、源頼朝が石橋山の合戦で敗れて後当地へ休憩、当地の謂れを聞いた頼朝は白幡を奉納し、白幡神社と称されるようになったといいます。また当地で千葉介常胤の使者を迎えることになり、「喜び見ん塚」と喜んだことから、君塚(喜見塚)の地名が起こったとされています。

千葉県神社名鑑による君塚白幡神社の由緒

「君塚村誌」に「日本武尊御東征ノ際、御休憩ノ塚ニ御杖ヲ立テサセ置カレシヨリ武ノ塚神ト尊称シ、村落ヲ武ノ郷ト称ス。治承四年源頼朝公東上ノ砌御休息ノ際、日本武尊ノ垂跡ナリト御聞アリテ白幡一旈ヲ納メシメテ御祈願アリ、随従ノ武者上指ノ矢一筋宛納メラレシト。該矢ノ根ナラン異形錆腐鉄数十ケハ文政九子年正月ノ火災ニテ類焼ス。会々ココニテ千葉介常胤ノ使者ト会ヒ喜ビ見ン塚ナリトノコトヨリ武ノ塚ヲ喜見塚ト称ス。尚白幡永存セシヲ以テ何時トナク白幡神社ト尊称シタリト」と記す。(千葉県神社名鑑より)

「市原市史」による君塚白幡神社の由緒

記載なし(「市原市史」より)

「市原郡誌」による君塚白幡神社の由緒

白幡神社
君塚にありて日本武尊を祀る、當社は人皇十二代景行天皇の皇子日本武尊東夷を御征伐し給ふ時御休息あらせられ、農民へ御命令(原文のまゝ)あり、塚に御杖を立させ置れしより武の塚神と尊號し、村落を武の郷と稱し、又治承四年九月源賴朝公石橋山敗戰後相州眞鶴より安房國へ着舟し、上總介廣常・千葉介常胤へ御使あり、當社へ御休憩の際農民を召され祭神を御尋ねあり、日本武尊の垂跡なりと御聞ありて、白旗一流を納められ御所願あり。随従の武士上指の矢一指示宛納められしとかや、該矢の根なりとて文政九年まで、異形の錆腐鐵十箇存在せしに、同年正月十六日鹽焚寵より出火本社類焼して終に土塊になりしと云ふ。折柄常胤の六男六郎太夫東野胤賴二百騎餘、御迎に来られしにより是は喜び見る塚なり。喜見塚と再三再四述べられしにより、今後武の塚を喜見塚と唱へ、尚ほ當時の白幡永存せしを以て白幡神と尊崇し、後世喜見の二字を君の一字に書き改め、村名を武埜郷君塚と唱へしと云ふ。(市原郡教育會編纂「市原郡誌」より)


君塚白幡神社の周辺図