遍照寺|長生郡一宮町東浪見にある天台宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

光明山遍照寺|一宮町指定文化財のイヌマキ

遍照寺の概要

天台宗寺院の遍照寺は、光明山と号します。遍照寺の創建年代等は不詳ながら、仁寿2年(852)慈覚大師の開基と伝えられ、神明山寿福院東照寺と号していたといいます。寛永年間(1624-1645)に徳川家康が東照大権現として祀られるようになったことから、名を憚り遍照寺と改号したといいます。元禄年間に火災により荒廃、旧地字寺前の北側から享保18年(1733)に当地へ移転、堂宇造営に際して、金銅薬師如来が発掘されています。

遍照寺
遍照寺の概要
山号 光明山
院号 -
寺号 遍照寺
住所 長生郡一宮町東浪見3009
宗派 天台宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



遍照寺の縁起

遍照寺の創建年代等は不詳ながら、仁寿2年(852)慈覚大師の開基と伝えられ、神明山寿福院東照寺と号していたといいます。寛永年間(1624-1645)に徳川家康が東照大権現として祀られるようになったことから、名を憚り遍照寺と改号したといいます。元禄年間に火災により荒廃、旧地字寺前の北側から享保18年(1733)に当地へ移転、堂宇造営に際して、金銅薬師如来が発掘されています。

「一宮町史」による遍照寺の縁起

遍照寺
大字東浪見字上の台にある。寺伝によると第五十五代文徳天皇の仁寿壬申二年(西暦八五二年)慈覚大師の開基と伝えられる。もと神明山寿福院東照寺と称したが、寛永年間に徳川家康が東照大権現として祀られるようになったので、その名をはばかって遍照寺と改め、またいつの頃よりか「光明遍照十方世界云々」の文に合せて光明山遍照寺となった。旧名の山号どおり神明社の別当、のちには八坂神社(大村)の別当であった。神明社は、いま山内に小祠をのこすのみであるが、もと東浪見の産土神(ウブスナガミ)といわれ、八坂神社(牛頭天王社)も鎮守社の形式を残しているので、鎮守社の変遷と共に別当職の地位を確保したらしい。もと字寺前の北側にあったが、元禄年間に火災にあってより荒廃していたので、享保十八年に現在の地に移った。本尊阿弥陀如来。ほかに阿弥陀三尊あり、平安時代中期の作と推定されるが破損が甚しい。うち一尊は宝永二年(一七〇五年)の補作である。また、金銅薬師如来(丈六センチ)があり、享保十八年の堂宇造営のとき現地より出土したもので、木造宝塔のなかに記録および古鍬と共におさめられている。大日本地名辞書下巻・吉田東伍著の虎見の部・東浪見寺の項に、「寺宝金像の薬師あり、高さ二寸塔中に安んず。是往来地を掘り出す所、像に鍬痕あり、其鍬も今に存す」とあるは、当寺と混同したものである。なお、記録には薬師像を発見した次郎助(当時十一ニ才)は像にきづをつけたことおそれ、剃髪して当寺に入ったと記されてある。(「一宮町史」より)


遍照寺の縁起

  • 遍照寺のイヌマキ(一宮町指定天然記念物)

遍照寺のイヌマキ

遍照寺は仁寿2年(852)慈覚大師の開基と伝わる天台宗の寺院です。もとは東照寺と称していましたが、江戸時代初期に徳川家康が「東照大権現」として祀られるようになると、その名を憚って遍照寺と改めたといいます。元禄年間(1688~1704)に火災にあい荒廃したため、享保18年(1733)に現在地に移ったと伝わります。
このイヌマキは樹高は約8メートル、胸高直径は約1メートルの大木で、樹齢は不明ですが約500年ほどとみられます。老木特有のウロがありますが、状態は比較的よく、葉のつきが良いです。享保18年に遍照寺が移転した際にはすでに存在していたといい、以後同寺によって大切に管理されてきました。堂宇造営の際にこの地からは金銅薬師如来が出土しており、このイヌマキとの関係性も想起できます。(一宮町教育委員会掲示より)

光明山遍照寺の周辺図


参考資料

  • 「一宮町史」