南宮神社|長生郡一宮町宮原の神社

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南宮神社|美濃国の穂積某が移住した際に南宮大社を勧請

南宮神社の概要

南宮神社は、長生郡一宮町宮原にある神社です。南宮神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇の皇子倭建命が東夷国遠征に際して金田郷大宮台に創建したと伝えられ、、白鳳年間(672685)に美濃国の穂積某が当地開発のために移住した際、美濃国一宮の南宮大社を勧請し相殿に祀ったと伝えられます。応仁年間(1467-1469)に当地へ遷座、明治44年に字宮原に鎮座していた白山神社を合祀しています。

南宮神社
南宮神社の概要
社号 南宮神社
祭神 豊玉姫命、金山彦命
相殿 -
境内社 神明・稲荷・八坂・三社神社、
例祭日 -
住所 長生郡一宮町宮原1131
備考 旧指定村社



南宮神社の由緒

南宮神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇の皇子倭建命が東夷国遠征に際して金田郷大宮台に創建したと伝えられ、、白鳳年間(672685)に美濃国の穂積某が当地開発のために移住した際、美濃国一宮の南宮大社を勧請し相殿に祀ったと伝えられます。応仁年間(1467-1469)に当地へ遷座、明治44年に字宮原に鎮座していた白山神社を合祀しています。

「千葉県神社名鑑」による南宮神社の由緒

景行天皇の皇子倭建命が、勅命により東征された途次、金田郷大宮台で目的完成を祈願し、社殿を建て、海神の御女豊玉姫命を奉祀した。次いで天武天皇の御代、金田郷開発のために来られた穂積氏が金田郷下山に遷宮、美濃国一の宮南宮大社の御祭神金山彦命を相殿に勧請し、祭神は二柱となった。その後、氏子の要請で応仁年間、現在地に遷宮、現在に至る。なお大宮台、下山の旧社地は現存している。(「千葉県神社名鑑」より)

「一宮町史」による南宮神社の由緒

南宮神社
字宮原に鎮座する。祭神は、大宮は豊玉援・若宮(南宮)は金山彦命を祀る。大宮南宮両社縁起(文政五年・南宮神社蔵)によると、人皇十二代景行天皇の皇子倭建命が東夷国遠征のとき、海上安穏の祈願を込め大宮台に祀ったと云われる。その後、白鳳年間(六七二~六八五年)に美濃国の穂積某が金田郷の開発のために移住し、「美濃国不波郡仲山金山彦神社 名神」(延喜式神名帳)を金田の下山に勧請し、更に大宮台にあった玉崎神社系の社に相殿勧請したものらしい。現在地に移ったのは応仁二年(一四六八年)で、金田郷より東浪見に移住した長谷川重郎左衛門の一族が氏神として崇敬するに便利なように懇請して願が入れられたものと伝えられている。
大宮の豊玉援は海神と信ぜられるところから海上安全・大漁祈願の信仰対象にもなっていたようで、文政五年壬午九月の「大宮南宮両社御礼御名前帳」の前書に「此度海上安全漁漁繁昌之御祈禱願ニ付九十九星里浦之御網主中様江御祓礼差上申候間、目出度御収納可被下候」とあり、長生・山武にわたる六十余の網主の名がみえている。また、宝暦十年九月山城国紀伊郡稲荷本社神主従三位奏親安より南宮神社神主白鳥玄蕃宛に「正一位稲荷大明神安鎮之事」の進上書があり勧遷の裁許がおりている。これは稲荷信仰が盛んになったためとみられるが、特に稲荷社の正式な勧請とした理由は明らかでない。
長寛癸未年十一月(一一六三年)創立と伝えられる白山神社(白山権現)=祭神白山比賣命=が字宮原の西端の高台にあったが明治四十四年南宮神社に合祀された。(「一宮町史」より)


南宮神社所蔵の文化財

  • 北沢楽天の絵馬(一宮町指定文化財)

北沢楽天の絵馬

北沢楽天は日本初の職業漫画家で、明治九年(一八七六)大宮宿(現さいたま市)生まれ。
横浜で西洋漫画の技法を習得し、福沢諭吉にその才能を認められ、明治三十八年(一九〇五)に出版した時局風刺雑誌『東京パック』で絶大な人気を得て、『ポンチ絵』と評価の低かった風刺画を近代漫画として確立しました。
楽天は一宮が「東の大磯」と呼ばれ、別荘地として栄えた明治末期頃から一宮川沿い宮原の水門下に購入した別荘に滞在し、大正元年(一九一二)には自ら経営する楽天社から『一宮案内記』という観光案内を刊行して、地元との交流も深めていきました。
この絵馬は、大正五年(一九一六)七月三十日の大洪水で流された別荘の紋扉に『神威顕現』と題し水魔克服の神を楽天が描いたもので、大きさは縦87cm、横156cmです。
日本画の素養もある楽天が、ダイナミックに描いた絵馬は、洪水の被害と被害者の供養のため南宮神社へ奉納され、一宮川の歴史と別荘地時代に訪れた文人の名残を留める資料として地域の歴史を伝えています。(一宮町教育委員会掲示より)

南宮神社の周辺図


参考資料

  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「一宮町史」