大聖寺|千葉市若葉区若松町にある真言宗豊山派寺院

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大聖寺|千葉寺十善講八十八所

大聖寺の概要

真言宗豊山派寺院の大聖寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師の外甥で、延暦寺第5世を務めた智澄大師圓珍(寛平3年891年寂)を開基として創建したと伝えられます。その後荒廃していた当寺を實算法印とその弟子有算が元禄年間(1688-1704)に中興、江戸期には近郷に末寺を多数擁する中本寺格の寺院でした。境内地が旧陸軍の演習場として収用されたため、昭和12年村民と共に当地へ移転しています。千葉寺十善講八十八所44番です。

大聖寺
大聖寺の概要
山号 -
院号 -
寺号 大聖寺
住所 千葉市若葉区若松町2092-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



大聖寺の縁起

大聖寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師の外甥で、延暦寺第5世を務めた智澄大師圓珍(寛平3年891年寂)を開基として創建したと伝えられます。その後荒廃していた当寺を實算法印とその弟子有算が元禄年間(1688-1704)に中興、江戸期には近郷に末寺を多数擁する中本寺格の寺院で、伝法灌頂を授けることのできる檀林所でした。明治維新後の明治7年には当寺で宇那谷学校が開校、境内地が旧陸軍の演習場として収用されたため、昭和12年村民と共に当地へ移転しています。

千葉市教育委員会掲示による大聖寺の縁起

大聖寺は、弘法大師の外甥智証大師の開基と伝えられ、現在真言宗豊山派に属している。かつては、宇那谷町にあり、境内が旧陸軍の演習場にかかったため、多くの檀家とともにこの地に移転した。旧境内は、1723坪(約5,700㎡)あり、本堂間口13間奥行10間3尺、庫裏間口5間奥行9間、不動堂間口5間奥行2間3尺、正門は仁王門で間口2丈7尺奥行1丈8尺、裏門は長屋門で間口6間奥行2間の他に元禄7年(1694)竣工の鐘楼があり、本格的なものであった。
現在本堂には、大日如来坐像及び阿弥陀如来立像、弘法大師坐像、興教大師坐像が安置され、ともに江戸時代の作である。不動堂には、不動明王坐像、不動明王立像が安置され、不動明王坐像は、平安時代(11世紀)の作で、不動明王立像は鎌倉時代の作である。仁王門には、像高2.8mもある左右1対の金剛力士像が安置され、鐘楼とともに往時の面影をとどめている。(千葉市教育委員会掲示より)

「千葉縣千葉郡誌」による大聖寺の縁起

大聖寺
犢橋村字那谷にあり。阿彌陀如来を本尊とす。本堂間口十三間奥行一〇間三尺、庫裏間口五間奥行九間、右に不動堂間口二間三尺、庫裏と本堂との間に客殿を設け、客殿の後に住職の居室あり正門は仁王門にして間口二丈七尺奥行一丈八尺、仁王尊を安置す。裏門は長屋門にして間口六間奥行二間の建物なり。
新義眞言宗豊山派に屬し、弘法大師の外甥知澄大師の開基といへり。
勇名なる檀家は松戸喜代松、小沢治助、松戸三郎兵衛、能勢安治郎にして檀家數は宇那谷全般なり境内の広さ一千七百二十三坪にして、松杉等鬱々と茂り合ひ、櫻樹亦其の間に交立して風致佳なり。
不動尊(像にして波切り不動と言ふ)、大般若經三十二本、不動像(狩野家筆一幅)、兩界曼荼羅(二幅筆者不明)、寶劔一振等の寶物、其の他由緒あるものあり。又境内の珍木(里俗水の木といふ)大聖寺より約三町の両方草叢中の智證が池等最も由緒深きものなりと。
開基の名僧を智澄大師といふ。延暦寺五世の坐主なり、名は圓珍、性は和氣、讃岐の人にして弘法大師の外甥といふ。年十五延暦寺の坐主義眞師に師事し、得度納戒す。後靈夢に感じて入唐し開元寺に至りて、悉曇章を學ぶ。又金剛大悲會大悲教蔵の法を受け天台山に遊ぶ。遂に圓清寺に行き物外師が止觀を講ずるを聞き、天安二年歸朝し貞観六年仁壽殿に於て大悲胎蔵の灌頂壇を結び眞言止觀の二法を弘傳す。十年圓城寺に入り慈觀を後に承けて延暦寺の坐主となり、七年四月入滅す。年七十八。延長五年謚を智證大師と賜ふ。
中興の僧實算及び有算。
殿堂は中古一時荒廢に歸し、僅かに殘塋を存するのみなりしが、元禄年間に至り法印實算遺跡の湮滅を憂へ、拮据精勤力をつくし殿堂を修め稍舊觀に復せりといふ。其鐘樓堂並に洪鐘は弟子の有算師の願命により造營するところなり。其の竣功は實に元禄七申戌四月八日なり。鐘銘は江城知足院僧正隆光誌すとあり。(「千葉縣千葉郡誌」より)


大聖寺の周辺図