千葉寺|千葉市中央区千葉寺町にある真言宗豊山派寺院

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千葉寺|僧行基が巡錫し聖武天皇に奏聞して勅願寺として創建

千葉寺の概要

真言宗豊山派寺院の千葉寺は、海上山と号します。千葉寺は、和銅2年(709)に僧行基が巡錫し、聖武天皇に奏聞して勅願寺として創建したと伝えられます。永暦元年(1160)雷火で伽藍を焼失、現在地へ移転、千葉氏の祈願寺となり、江戸期には御朱印領200石を拝領していたといいます。坂東三十三観音29番、関東八十八ヶ所霊場47番、千葉寺十善講八十八所88番です。

千葉寺
千葉寺の概要
山号 海上山
院号 -
寺号 千葉寺
住所 千葉市中央区千葉寺町161
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 坂東三十三観音29番、関東八十八ヶ所霊場47番霊場



千葉寺の縁起

千葉寺は、和銅2年(709)に僧行基が巡錫し、聖武天皇に奏聞して勅願寺として創建したと伝えられます。永暦元年(1160)雷火で伽藍を焼失、現在地へ移転、千葉氏の祈願寺となり、江戸期には御朱印領200石を拝領していたといいます。

境内掲示による千葉寺の縁起

市内最古の寺院で、奈良時代の和銅2年(709)の創建と伝えられ、発掘調査の結果、奈良時代末期には四間X四間の瓦葺きの金堂が存在したことが確認された。
境内の仁王門と鐘楼堂は、文政11年(1828)に建立されたものである。
遺物には、奈良時代の布目瓦、平安時代の経筒、鎌倉時代の常滑焼骨壷、室町時代の青銅製の梅竹透釣灯籠(国指定文化財。東京国立博物館所蔵)、桃山時代の五輪石塔など、貴重なものが多数ある。(境内掲示より)

「千葉市史」による千葉寺の縁起

千葉寺
海上山千葉寺は真言宗に属し、本尊は十一面観音並びに薬師如来である。当寺の創建について、『千葉寺縁起』(天和のころの作)によると、平城京遷都の前年にあたる和銅二年(七〇九)諸国巡礼中の僧行基が千葉の地を訪れ、池田郷の池で千葉の蓮花を眺めて、霊感にうたれ丈六の十一面観音を刻み、聖武天皇の勅命によって、本堂その他の建物が建立されたと伝えられている。旧寺は海照山勧喜院千葉寺と称し、寺院数十カ寺、脇堂一八軒、本堂は一八間四方の大伽藍といわれたが、永暦元年(一一六〇) 火災のため焼失して、現在の場所に移されたらしい。最初の創建の場所については現在の当寺の東方約九〇メートル程の所の「三界六道観世音旧跡」と記した石碑付近という説があって、今も通称「観音塚」と呼ばれる土壇跡らしいものが存在している。
しかし永暦元年以前に、現在の千葉寺境内に大規模な寺院が建立されていた事実は前後五回に及ぶ発掘調査で明らかである(『千葉市誌』第三節第二項)。昭和二十五年、同二十七年発掘調査にあたった武田宗久は、旧寺は奈良時ないし平安初期に千葉郡内の有力豪族の氏寺として現寺院の境内に存在していたと推定している。
当寺は花山天皇(九八四~八六)のとき、坂東三十三カ所の観音霊場制定に際し、第二十九番札所と定められ、現在も巡礼者の参拝が多い。千葉常重が猪鼻城に居を構えて後、当寺は千葉氏の尊崇厚く、たびたび堂宇の修復を受けている。『千学集』によると千葉氏代々の当主の元服に際し、当寺の滝蔵権現(現滝蔵神社)に武運を祈願する慣習になっていた。古くは千葉寺村一円を寺領としていたが織田信長のとき、約一〇分の一に減少されたらしい。その後、中興の開山空山のとき(一五九〇)徳川家康は朱印地百石を寄進している。江戸時代に、当山は境内寺院に東光院、西光院、正寿院、本覚院、東浄院、西照院、普門院、金蔵院、東照院を擁し、末寺には大日寺、春光院、寒川光明院があった。元禄年(一六八九)、文化三年(一八〇六)、嘉永五年(一八五二)とあいつぐ火災により、往時の繁栄の姿はしのぶべくもない。更に、昭和二十年七月六日の空襲によって、本堂(観音堂)を焼失している。
境内に桜が多く、明治時代には花見の名所としてにぎわった。庭前の大銀杏樹は樹齢千年を越えると推定され、県指定の天然記念物となっている。当寺はさきに述ベたように、数度の火災にあって、古記録を失い、わずかに千葉胤富の寄進状など数点が残されているにすぎない。一二六一年(弘長二年)十二月二十二日の銘があった通称「戻り鐘」も文化年間(一八〇四~一八)に失われたらしい。また、現在ではなくなってしまった「千葉笑」の風習も興味深い伝説といえよう。「千葉笑」については村岡良弼が『日本地理志料』の中で引用している『本朝俗諺志』によれば、
千葉氏時毎歳日会庶民于千葉寺、令恣談笑吏人賢否得失、号日千葉笑、吏人漸之常飭其行云、
とあるが、別に毎年十二月三十一日の夜、千葉寺に会合したとの説もある。千葉氏の時代に村人が千葉寺境内に集って、村役人らの悪口などを述べあって、日ごろの積る不平不満をはらす機会であったのだろう。
なお、明治四十三年、幕末当時同寺の門前名主畑野勇治郎宅の竹やぶから発掘された青銅製六角形梅竹透釣燈籠には天文十九年(一五五〇)の銘があり、「下総国千葉之庄、池田之郷千葉寺」と刻まれ、一六世紀ころ千葉寺は池田之郷内にあったことを示している。(「千葉市史」より)

「下総国旧事考」による千葉寺の縁起

千葉寺
千葉寺村在。建長三年。千葉氏創建。何僧開所不詳也。本尊観世音。旧址東方在。巡礼三十三所中第廿九為。胤富文書一葉蔵。于古文書志載。紀伊高野山寶性院隷。寺領二百石。天正十九年辛卯十一月付。(「下総国旧事考」より)


千葉寺所蔵の文化財

  • 奈良時代の布目瓦
  • 平安時代の経筒
  • 鎌倉時代の常滑焼骨壷
  • 室町時代の青銅製の梅竹透釣灯籠(国指定文化財、東京国立博物館所蔵)
  • 桃山時代の五輪石塔
  • 千葉寺ノ公孫樹(千葉県指定記念物)
  • 千葉寺境内(千葉市指定記念物)

千葉寺境内(千葉市指定記念物)

縁起では、和銅2年(709)東国巡錫中の行基が池田郷の池で千葉の青蓮に霊を感じ、丈六の十一面観音像を刻み、その話を聞かれた聖武天皇の勅命により堂舎を建立(東方約1kmの観音塚と伝えられる)し、海上山歓喜院青蓮千葉寺と称したという。永暦元年(1160)雷火で伽藍を焼失し現在地に移転する。この頃より千葉氏の厚い信仰を受けるようになったと伝えられています。
昭和25・27年の発掘調査で、旧寺の境内は70間(約126m)四方であったと推定され、奈良時代の瓦が出土したことから、永暦以前にすでに大伽藍がここにあったと考えられる。現本堂は昭和51年落成であるが、仁王門・鐘楼は文政11年(1828)の建築です。
寺は真言宗で、十一面観音を本尊とし、坂東33ヶ所観音札所の第29番で、巡礼者で賑い、戻り鐘や千葉笑の奇習伝承を残し、境内には歴史上の記念碑も多く、本市の歴史上重要なところです。(千葉市教育委員会掲示より)

千葉寺の周辺図