子安神社|千葉市花見川区畑町の神社

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子安神社|式年大祭・湯立神楽祭

子安神社の概要

子安神社は、千葉市花見川区畑町にある神社です。子安神社は、延暦年間(782-806)に築造された古墳を神体として創祀、延喜年間(901-923)に奇稲田姫命を勧請し、子安大明神として祭られるようになったといいます。千葉之介平常胤公の奥方懐妊に際し、家臣長田八郎時忠氏が当社に出産祈願、無事に安産できたことから崇敬を集め、建久4年(1193)平常胤公は社殿を造営し、氏子23ヶ村で盛大な祭典を執行、文安2年(1445)には幕張城主平康胤公の代にも無事出産できたことから大祭典を行なったといいます。江戸時代中期頃からは子授安産の式年大祭が行われるようになり、現在も七年目毎に執行されています。

子安神社
子安神社の概要
社号 子安神社
祭神 奇稲田姫命
相殿 -
境内社 妙見宮、弁財天、大杉社、古峰社、稲荷大明神、等
住所 千葉市花見川区畑町2093
祭日 湯立神楽祭2月28日、例祭10月17日、式年大祭丑年11月3~6日
備考 -



子安神社の由緒

子安神社は、延暦年間(782-806)に築造された古墳を神体として創祀、延喜年間(901-923)に奇稲田姫命を勧請し、子安大明神として祭られるようになったといいます。千葉之介平常胤公の奥方懐妊に際し、家臣長田八郎時忠氏が当社に出産祈願、無事に安産できたことから崇敬を集め、建久4年(1193)平常胤公は社殿を造営し、氏子23ヶ村で盛大な祭典を執行、文安2年(1445)には幕張城主平康胤公の代にも無事出産できたことから大祭典を行なったといいます。江戸時代中期頃からは子授安産の式年大祭が行われるようになり、現在も七年目毎に執行されています。

境内掲示による子安神社の由緒

創立
口伝によれば桓武天皇延暦年間この辺を支配する豪族により作られた子安古墳のお山を御神体として五穀豊穣の神として創立される(一一九九年前)子安大明神と祀られしは人皇第六十代醍醐天皇の御宇延喜年間奇稲田姫命を勧請し祀る(一〇八二年前)
効験
左大臣藤原時平公深く尊敬し給ふ其の霊験著しく安産守護神として衆人の尊崇益々加る後に鎮守府将軍村岡陸奥守平良文八代の孫千葉之介平之常胤公信仰尠からず建久三年(壬子)公の奥方解胎し生月に至るも監産の気色なかりしば公の家臣長田八郎時忠氏を旗村(畑)なる子安大明神に安産祈願のため参籠せしに帰路幕張の海岸に於いて男子を安産し給ふ。公を始め諸士庶民一同祝賀を挙げ翌建久四年(癸丑年)公は巨費を投じて社殿を造営し、且祭典を執行する。(建久四年九月十七日の棟札有り)霊験の著しきに衆人の信仰弥益々に加り氏子一同は申すに及ばず附近の村落神社並に氏子二十三ヶ村田喜野井・三山・藤崎・実籾・長作・畑・武石・幕張・鷺沼・久久田・谷津・上飯山満・八木ヶ谷・大穴・楠谷山・古和釜・坪井・麦丸・萱田・大和田・萱田上宿・高津・柏井・相集ひ盛大なる大祭典を挙行せしと云ふ。(後鳥羽天皇の御宇頼朝将軍時代七八九年前式年大祭の始めなり)
現在の様な形に発展したのは文安二年(後花園天皇の御宇)千葉介二十一代幕張城主平康胤公の懐妊に際し安産祈願せしところ無事男子誕生したるに感謝し大祭典を行ふ(五四〇年前)更に江戸中期徳川八代将軍吉宗公(享保十二年)の頃より七年目毎に幕張周辺に於いて子授安産が行はれるやうになる。(二六八年前)今尚一層の数万の参詣者有り大祭典が執り行はれる。(境内掲示より)

「千葉県神社名鑑」による子安神社の由緒

桓武天皇の延暦年間に、この周辺を支配する豪族によって作られた子安古墳のお山を御神体とし、五穀豊穣の神として創立される。第六〇代醍醐天皇の延喜年間櫛稲田姫命を祀り子安大明神となる。千葉之介平常胤公の信仰厚く、建久四年奥方懐胎のとき安産祈願したところ男子を安産なされ、その御礼に社殿を造営(建久四年九月一七日の棟札あり)し、大祭典を行なった。これが七年目毎の式年大祭の始めである。(「千葉県神社名鑑」より)

「千葉縣千葉郡誌」による子安神社の由緒

子安神社
検見川町畑字西口に鎮座す。稲田姫を祀る。神楽殿間口二間半奥行一間半、境内千六百三十四坪。境内神社妙見社、石尊社、金比羅神社あり。氏子百四十五戸。毎年十月十七日例祭を行ひ七年毎に二宮村なる二宮神社と合同して大祭を行ふ。
建久四年千葉常胤其の息女の安産を祈願して効驗顯はにてありければ、社殿を改造し尊崇甚厚かりしと、今尚氏子は勿論遠く京濱より参詣者少からず、寄進亦尠からず。大正七年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(「千葉縣千葉郡誌」より)


子安神社の周辺図